見出し画像

落語徒然草その10 「蔵前駕籠」における追い剝ぎに襲われた犯行現場はどこだ?

先日の鈴本演芸場二之席夜の部で聴いた春風亭正朝師匠の「蔵前駕籠」。この噺の舞台である蔵前は、私の住んでいる地元。なので、この噺は以前から気になって聴いていた。
正朝師匠の一席では、追い剥ぎに襲われたのは「天王橋を渡ったあたり」と語られていて、この噺でよく聴かれる「榧寺(かやでら)」は登場しなかった。
噺の舞台として登場している蔵前通りは、現在の国道6号線である江戸通りのこと。そして現在の江戸通りに、天王橋なる橋は存在しない。さて、この天王橋を渡ったあたりとは、現在ではどのあたりになるのだろうか。今までは、榧寺の辺りかと漠然と思っていたが、正朝師匠の一席で登場した天王橋に引っ掛かり、この橋はどこにあったのだろうと気になってしまった。この蔵前の地に、その痕跡が残っていないのだろうか。地元民として、探索したい気持ちがむくむくと湧き上がってきた。

そこで、まず当たってみたのが「江戸芸能落語地名辞典」。ずばり、天王橋で引いてみた。すると、ちゃんと記載されていた。言葉だけの記載だったが、確かに江戸通りに在った橋のようだ。場所は古地図に当たるしかない。そこで、次に当たったのが「上野・浅草 歴史散歩」という台東区発行の古地図と現代の地図の重ね図を集めた書籍。そして、この古地図で見つけたのが、江戸通りを横切るように流れる鳥越川と江戸通りに架かる鳥越橋という名が書かれた小さな橋。
辞典の記載から分かったのが、江戸の頃、幕府の米蔵である浅草御蔵の南端に、隅田川と合流する鳥越川という小さな川が流れていた。今の江戸通りと交差する場所に、小さな橋が二つ並んで架かっていて、古地図では鳥越橋と表記されているが、その橋を当時は天王橋と呼んでいたらしい。
この橋の近所で江戸通り沿いに今もある須賀神社は、江戸の頃は牛頭(ごず)天王社と呼ばれていて、このあたりの町名も天王町と名付けられていた。それと同じ理由で、「鳥越橋」も俗に「天王橋」と呼ばれていたようだなのだ。
この辞典で気付いたのだが、この橋は「後生うなぎ」にも登場する。吉原通いで通る橋なので、江戸っ子たちには有名な橋だったのかもしれない。この蔵前の地は、他にも落語の舞台としてよく登場する。
明治になって牛頭天王社は須賀神社と改名され、橋名も須賀橋と改められた。現在は、鳥越川は道路になってしまい、須賀橋も架かっていない。しかし、重ね図で現在の場所は特定できる。何と、そこは私が中学生時代に通学で毎日通っていた場所なのだ。そこに天王橋の痕跡が残っていないだろうか。家の近所だし、よし、行ってみようと休日に散歩を兼ねて行ってみた。

さて、行ってみておどろいた。この須賀橋が架かっていたあたりに、今も須賀橋の名残を見つけたのだ。
元の鳥越川だった道路が江戸通りと交差している場所が、交差点となっている。なので天王橋は、この交差点あたりにあったことになる。この交差点の信号機の看板に「須賀橋交番前」と書いてあり、交差点の角に「須賀橋交番」と名付けられた交番がある。まさに「天王橋」から変わった名前である「須賀橋」が、交番や交差点の名前として残っているのだ。
中学生のころ毎日通っている通学路が、江戸の頃は川であって、橋が架かっているところが交差点に変わっている。そんな事実を大人になって、それも落語好きになったことが切っ掛けで気付くなんて。これは、ちょっと嬉しい驚きだ。

ということは、正朝師匠の一席において駕籠が追い剥ぎに襲われたのは、江戸通りの須賀橋交番前の交差点あたり、住所でいうと蔵前1丁目と浅草橋3丁目に挟まれた江戸通りの路上と推定される。蔵前1丁目には蔵前警察署があり、須賀橋交番と蔵前警察署に挟まれた場所が追い剥ぎの犯行現場になるのだ。まったくの奇遇だが、面白い。こんな街中でも、幕末の頃には夜になると治安が悪くなっていたことが伝わってくる。
このあたりから榧寺までは、歩くと数分かかる。なので、天王橋を過ぎて榧寺あたり、と表現すると、場所を特定するにはかなり範囲が広くなる。「天王橋あたり」もしくは、「榧寺あたり」のどちらかで場所を示した方がより特定していることになる。このあたりの表現は、落語なので別にどちらでも良いし、両方を言ったとしても何の問題もない。演者による表現の違いの程度、落語の表現としては、どうでもいい話ではある。
今回、犯行現場に立ってみて、ここから吉原へは歩くとまだ小一時間はかかることが分かる。歩いて行くには、ちょっと遠い。被害者は追い剥ぎに遭遇した後も、吉原へそのまま駕籠で行きたかったはず。でも、担ぎ手は逃げてしまった。さて、どうしたのだろう。そんな、下げの後の物語をあれこれ想像するのも楽しいのだ。
この正朝師匠の一席から、落語の舞台が中学校の通学路だったことに気付いたという、落語というフィクションが、思い出の場所という現実世界に結びついていたという顛末。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?