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落語日記 馬治先生の落語基礎講座

オンライン北総里山寄席

8月1日

金原亭馬治「落語基礎講座」

金原亭馬治「井戸の茶碗」

 馬治師匠が地元の印西市で続けている落語会「北総里山寄席」がオンライン配信で開催。前回のテスト配信を経て、今回は広報もしての本番。今回も利用した配信方法はZoom。
 収録会場は、馬治師匠のご実家。前回は背景が窓で逆光になり、今回は部屋を変えて収録。背景は障子だが、その裏には仏壇があるそうだ。まさか、亡きお父様のお位牌と仏壇の前で落語をやることになろうとは、そんな嘆きが可笑しい。テスト配信での検証も活かし、場所や背景を変えたので見やすくなった。また、配信時間も1時間弱とコンパクトにまとめた。落語ファンなら、ネット配信でも、1時間くらいは集中力維持の点で問題はないと感じている。

 今回、馬治師匠が考えたこの1時間の構成は、前半に落語基礎講座と題した落語に登場する江戸文化の解説を行って、その後に落語を一席。まずは江戸文化の講座、次が落語の高座という落語二席を続けるよりもメリハリがあり、観客を画面に引き付ける構成。なるほど、ネット配信を意識した構成だ。

 今回の講義のテーマは「江戸の貨幣制度」。馬治師匠は、百均で買ったスケッチブックに手書きで作ったフリップを掲げながらの講義。さすが、早稲田大学でも講師を務めている学究派の馬治先生。細かい説明は省いて簡潔で分かりやすい解説だ。

 江戸のころは、金貨、銀貨、銭(ぜに)と呼ばれた銅貨の三種があり、それぞれに単位があった。両、分、朱の関係、それらと文の関係を解説。
 江戸時代は、それぞれの貨幣を交換する際には、その時期によって相場に変動があり一定ではなかった。その話をすると難しくなるので、馬治先生は元禄時代の公定相場である金1両イコール銭4000文を基本として解説。

 そして、この講座のポイントは、当時の貨幣を現代の貨幣に換算すると何円になるのかという疑問に対する答え。そこで出された例えが、時蕎麦でもお馴染みの蕎麦の値段を使った文と円の価値を判断する方法。江戸のころ二八蕎麦と呼ばれたのは、一杯の値段が十六文したからという説が有名。そんな、江戸時代で一番有名な物価が一杯十六文という蕎麦の値段、これを基準として考える。
 そこで、現代のかけ蕎麦一杯の値段をざっくり500円と仮定する。すると、十六文が500円なので、一文は30円くらいの換算となる。ということは、一文を30円と仮定すると一両は4000文なので、一両は12万円という計算になる。

 この貨幣価値というものは、江戸時代でも前期中期後期でも変わってくるし、相対的な価値も物によっても異なるので、この数字はあくまでもひとつの目安にすぎない。
 今回は蕎麦の値段を使ったが、米の値段、職人の賃金を基準にすると、一両の価値もまた変わってくる。馬治先生のシンプルな判断材料の提示は、かなり単純化されたモデルであって、落語の解釈にとっては分かりやすいものだったと思う。そんな貨幣制度の講義を終え、落語の本編に入る。

 本編はご存知の噺。そして、馬治師匠の得意中の得意、十八番の噺だ。
 そして、ご存知のように、200文の仏像が300文で売れたことから始まって、仏像の中から50両が出てきて、最後は細川のお殿様が茶碗を300両でお買い上げになるというように、金銭の値段が重要なモチーフとなっている噺。
 この噺の中の値段を、馬治先生の講義による基準で円への換算してみる。すると、元値6千円の仏像が9千円で売れて、その中から6百万円が出てきて、細川公が茶碗を3千6百万円でお買い上げになった、こう解釈される。現在の価値に引き直すと、その価値の大きさに登場人物の皆が大騒ぎすることがよく分かる。

 このように円に換算してみると、噺の印象も変わってくる。
 長屋で貧乏暮らしの千代田卜斎が、実はこんなお宝を持っていた。その価値は相当なもの。先祖が仏像に6百万円も隠していた。千代田家は由緒正しいかなり身分の高い家系だと想像がつく。殿様の末裔か主家に近い血筋かもしれない。プライドが高いのも無理はないし、お嬢様の教育がしっかりされていたことも分かる。
 仏像から出た6百万円を受け取らないというのも、卜斎はただの尾羽打ち枯らした浪人ではないということも感じさせる。元々の貧乏暮らしの下級武士なら、喉から手が出るような金額だろう。しかし、きっぱりと断れるというのは、卜斎の金銭感覚が上級武士だったから、50両がそんなに驚くほどの金額でもなかったのでは、そんな想像もできる。

 世に二つという名器、一国一城にも代えがたき名器というの井戸の茶碗。これを3千6百万円で買えたとは、細川公は相当お得な買い物をしたに違いない。今の価値なら億単位とも考えられる。これを家臣から召し上げるのだ。これくらいの対価で妥当という判断なのだろう。

 普段使いの茶碗がそんな名器と知れたあとの卜斎の反応も淡泊だ。これこそ先祖伝来の家宝、もしかして主家からの下され物かもしれない。あっさりと金に換えてしまったことへの後悔よりも、価値が分からなかった自分の不明を恥じているよう。このあたりも、落ちぶれ武士の悲哀なのだろう。

 高木佐久左衛門も実直で誠実な男として描かれている。金で金を買った覚えはない、と正直に返還を申し出るところが佐久左衛門の美点として描かれている。しかし、現代の感覚からいっても、買った古道具から6百万円もの現金が出てくれば、喜んで自分のものにしてしまうには抵抗がある。出処の分からない大金には怖さもある。黙っている訳にはいかない、ほとんどの人が届け出るだろう。そう考えると、高木佐久左衛門がことさら正直者で真面目という訳ではなく、常識人としては当たり前の行動をしたとも言える。そうは言っても、佐久左衛門の人間性が実直で誠実であることは間違いない。

 「百両のかたに編笠一蓋」と思って預かった茶碗が、なんと3千6百万円にもなってしまった。全部を貰う訳にはいかないと考えるのは、現在の常識的な価値観と同じ。つまり、価値観が現代にも通じるので、この噺を楽しむことが出来るのだ。
 落語に登場する有名な金額として、芝浜と火焔太鼓がある。拾った財布の中から出てきた50両、火焔太鼓を売った代金が300両。奇しくも井戸の茶碗に登場するのと同じ金額。でも、その価値の印象は違う。
 芝浜の50両は、人生を掛けるくらい、そして人生を変えるくらいの大金。火焔太鼓の300両は、びっくりして座り小ん便して馬鹿になるくらいの金額。芝浜の方が、金額は少ないが、どっしりと重い。芝浜の50両は、庶民の人生を狂わせ更生させるくらいの大金、仏像の腹籠りの50両は、武士のプライドで受け取れない金額。立場が違えば、同じ金額でも価値が違ってくるのは現代でも同じ。

 馬治先生の講義を聴いたあと、円換算での価値を考えながら聴いた井戸の茶碗。ちょっと違った視点で聴き、こんなことも考えたりした。
 なかなかに面白い企画だった。

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