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〈ありがとう〉を求めること

「感謝を求めてはいけません。
『ありがとう』を求めてはいけません。
 それは“見返り”であり、欲なのです。
 無欲で相手に手を差し伸べることが、奉仕の精神なのです」

 仏教の授業で、そのようなことを言われた。実際はもっとフランクな口調だったと思うけれど、内容としてはこのようなことだった。

 わたしの通っていた高校は私立で、理事長が仏教徒、そのため『仏教』を取り入れている高校だった。

 取り入れているといっても、ガチガチに宗教思想を生徒に押し付けているわけではない。
 カトリックの幼稚園があるように、仏教の高校がある、というだけのこと。

 ただ、カリキュラムとして、『仏教』の授業があった。
 内容としては、ブッダの誕生秘話からその教え、それをどう日常に生かしていけるかなど。あと仏教には宗派(日蓮宗、浄土宗、浄土真宗…など)があり、その中の一つだったので、その宗派の教えとか考え方。

 その授業の中で、最初に述べた『見返りを求めない精神』という話があった。

 仏教の授業はどうやって生徒の評価をするか……。そう、テスト。
 仏教のテストがあった。

 テスト内容は、ブッダの生まれに関しての穴埋め形式で、たとえば、『ブッダの母親は、(   )という名前で、(  )から生まれ……。この(  )を埋めなさい』とか。
 案外、暗記問題だった。

 いやそんなことは本題じゃあない。

 暗記系テスト問題の中、最後の設問に、『仏教の授業で感じたことをひとつ書きなさい』という自由記載の問題があった。

 わたしは、
「授業では『ありがとうを求めてはいけない』といっていましたが、私はそれが悪いことだとは思いません。
 確かに『恩着せがましい』という言葉があるように、押し付けるのは良くないと思います。
 しかし相手が喜び、ありがとうと言ってくれ、自分も喜びが生まれる。お互いハッピーで、それの何が悪いのか分かりません。
 例えば、誰かに贈り物をする時に、「その人が一番喜んでくれるのは何だろう」そう考えているときに、相手の『ありがとう』という顔が思い浮かぶ。
 私は『ありがとう』を求めて、何かをすることが悪いことだとは思わない」
と記載した。

 テストの結果は、×だった。
 いや、記憶違いで、△程度は温情を貰っていたかもしれない。

 自由記載で書いておけといいながら、×だか△だかは、当時も納得がいかなかった。
 それなら最初から『仏教の教えを生かしていきたいことは何か』とかにしておけよ、と思った。
『なんでも良い』というので、自分の意見を書いたというのに。

 しかし当時のわたしはいい子ちゃんだったので、そんな反抗はせず、テストの点数を受け入れるしかなかった。
 本当にいい子ちゃんだったら、まずそんな回答をしないのかもしれないけれど。実際、授業の内容を“否定”しているのだから。だが、ここで批判的な意見を書いたらどうなるんだ、という欲望に負けた。暗記問題は完璧だったので、ここで点数を減らされてもいいかと思った。
 だから実際は、いい子ちゃんではなかったのだろうね。

 いまだに考える。

『ありがとう』を求めるのは良くないことなのだろうか。

 決して、仏教の教えを否定しているわけではない。
『見返りを求めない精神』が間違っているとは思わない。
 それが出来るのだとしたら、それが一番ベストだと思う。
 そういうことは理解している。
 でもそれを出来る人なんて、本当に限られる。それこそ修行を積まないとできないだろう。

 〈ありがとうと言って欲しい〉
 それが“きっかけ”になるのなら。
 自分の原動力となるのなら。
 相手に喜びが生まれるのなら。
 その瞬間、心中はどうであれ、『やさしさ』はそこに芽吹くのではないか。

 そうして生まれた『やさしさ』は他の人を通して広まっていく。
 人から人へ『ありがとう』の『やさしさ』が伝染していく。
 もしそれが“欲”という悪ならば、一種の感染症になってしまうのかな。
 

『ありがとうを求めること』は良くないことなのか。

 何故×をつけられたか。

 わたしは、いまだ理解できそうにない。

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