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実篤の1923年

 「武者小路実篤の1923年」。そう、関東大震災が起こった年だ。今から100年前。その時分、実篤はどうしていたのか、何を考えていたのかに焦点を当てた令和5(2023)年度春の特別展が開催中だ。
 会場となっている調布市武者小路実篤記念館(東京都調布市若葉町1-8-30)を訪ねた。会期は6月11日(水)まで。
 1923年9月1日の午前11時58分、東京と神奈川を中心に関東南部を激しい揺れが襲った。マグニチュード7.9とされた関東大震災だった。実篤は宮崎県の「新しき村」にいて難を逃れた。
 しかし、東京の実家の家族が被災した。宮崎にいた実篤はいてもたってもいられなかった。直ちに村を発ったのだ。


 紆余曲折を経て入京した実篤。当時の麴町区元園町にあった実家は火災で全焼していた。実篤は焼けて思い出の木々などが失われたのを見て衝撃を受けたものの、のちに次のように書いていた。
 「僕はたいてい惜しい気はしなかった。この大震災はもっと恐ろしい結果を人々に与えていたから、家が焼けたことぐらいに未練を持つには現実がひどすぎた」(「一人の男」45章 昭和45年)。
 画家の河野通勢(こうの・みちせい)は震災直後から、麹町の武者小路邸、お茶の水、上野、日本橋、本所、深川、鎌倉などを見て回り、被害や人々の様子をスケッチブックに描き留めた。それらが公開されている。
 河野は「白樺」の読者から同人になった。ちなみに「白樺」とは明治43年に実篤によって創刊された「理想主義」的な雑誌のことだ。
 「新しき村」とは「人間らしく生きる」ことをモットーとした理想社会のことを指し、当初はまず宮崎・日向(ひゅうが)に作った。大正7年のこと。実篤の考えに賛同した人たちが全国から集結した。
 さて、出版業界も大きな打撃を受けた。明治43年創刊の雑誌「白樺」は9月号が印刷所ごと焼けてしまった。そして8月号をもって13年5か月の歴史に終止符が打たれた。また、9月1日発行の「武者小路小集第2篇 楠木正成」も納本を前にして製本所ごと焼けてしまった。
 その後の実篤の文筆活動と戯曲上演についての展示もある。戯曲「だるま」や戯曲「尭」に関係する資料を見ることが出来る。
 12月1日には実篤と安子のもとに娘が誕生した。新子と名付けられた。「気まぐれ日記」の気持ちを綴った箇所がある。
 その年にはもう一つ、実篤にとって重要なことがあった。有島武郎の情死がそれだ。有島と実篤とは学習院中等学科の時に知り合い、生涯にわたる大切な友人となっていた。当時は実篤も女性関係の報道に晒されており、有島の境遇に同情する一方、新聞に悪口をかかれた時、志賀直哉が実篤に「君は不ジミだから安心している」と云ってきたという。
 
  

 禍福ある一年の実篤の活動を振り返るとともに、日記や書簡から心の内を読み解こうと試みているのが本展である。
 私生活では、新しき村の創設を支えた房子とのすれ違い、実篤を献身的に支える安子への募る思いと、二人の女性の間で心が揺れ動いていた実篤。
 「武者小路実篤の1923年」の開館時間は午前9時から午後5時まで。入場料は大人200円、小・中学生100円。武者小路実篤記念館の連絡先は03-3326-0648。  


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