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大阪の近代日本画

 阪神タイガースファンは読売巨人軍を目の敵にしている。負けてたまるかと。大阪出身の人は東京に来ても決して東京弁を話したりはしない。大阪弁に誇りを持っている。大阪は時に東京に対抗意識を持つ。
 ではアート(美術)の世界ではどうなのだろうか?そんな疑問をぶつけてみたところ、大阪中之島美術館の林野雅人(はやしの・まさと)・主任学芸員に一蹴されたーそんな対抗意識はありませんねという風にして。
 商業都市・大阪の場合、アーチストを支援してくれるパトロンが多くて、画家たちはおカネに困らなかった。東京の画家のように展覧会で入賞を狙って成功の足掛かりを得ようというアーチストがいなかったという。

林野雅人・大阪中之島美術館主任学芸員


 林野さんが構成・企画を担当した企画展「大阪の日本画」が東京ステーションギャラリー(東京都千代田区丸の内1-9-1)で2023年6月11日(日)まで開かれている。同5月16日(火)に鑑賞してきた。
 「大阪は商工業都市として発展を続けながら、東京や京都とも異なる独自の芸術文化を育んできました。近代になり、市民文化に支えられた大阪の日本画は、江戸時代からの流れをくみつつ、伝統にとらわれない自由闊達な表現を花開かせました」(企画展「大阪の日本画」主催者)。

北野恒富《宝恵籠=ほえかご》1931年頃、大阪府立中之島図書館

 「江戸時代、武家屋敷があって役人が集まっていました。彼らは江戸や国元とは違って比較的のびのびと過ごしていたのです。そして、多くの藩は町人からお金を借りていました」と林野さんはいう。
 林野さんは続けて「町人には時間的・金銭的余裕がありました。彼らは互いに入り交じる形で交遊しており、文化が広がっていきました」という。 

 伝統にとらわれない自由闊達な表現が花開いた近代大阪の美術。妖艶で退廃的な作風で人気を博したことから「悪魔派」と揶揄された北野恒富(きたの・つねとみ:1880-1947)。大阪における女性画家の先駆者で上村松園とも並び称された島成園(しま・せいえん:1892-1970)
 大阪の文化をユーモラスに描いた菅楯彦(すが・たてひこ:1878-1963)、新しい南画を主導した矢野橋村(やの・きょうそん:1890-1965)、女性像にモダンな感覚を取り入れた中村貞以(なかむら・ていい:1900-1982)といった個性が集結した。

島成園《祭りのよそおい》1913年、大阪中之島美術館
北野恒富《五月雨》1938年、大阪中之島美術館 [展示期間5月16日-6月11日]

 生田花朝(いくた・かちょう:1889-1978)は日本三大祭りのひとつである大阪の天神祭を描いた。始まったのは天歴5年(951)という歴史がある祭り。花朝が描いたのは徳川末期の天神祭の光景である。
 市中を流れる大川(旧淀川)の川面には、神輿船、かがり火を焚いた船、小太鼓の囃子船、見物客の屋形船。船渡御(船渡御)の賑わいは躍動感に満ち満ちていたことが見て取れる。

生田花朝《天神祭》1935年頃 大阪府立中之島図書館

 菅楯彦は市民の憩いの場であった四つ橋の姿を描いた。かつて長堀川と西横堀川が交差するところに四本の橋がかかっていて、風光明媚な大阪の名所として知られていた。行き交う人々や露店の様子が描かれている。

菅楯彦《阪都四つ橋》1946年、鳥取県立博物館

 南画家の矢野橋村は、大阪の日本画の地位向上のためには従来の表現からの脱却や変化も必要だと考えて尽力した。愛媛県今治市に生まれた橋村は大阪に出るが、左手首切断という不慮の事故に遭った。
 当初は明清の中国絵画を強く意識した作品を描いていた。だが橋村は日本の風土にもとづく南画をつくることを目標に掲げるようになり、江戸時代から続く伝統的な南画(文人画)に近代的感覚を取り入れた革新的な「新南画」を積極的に推し進めることとなる。
 「中国文化が市民の間で栄えていました。そして大阪は文人画(南画)の一大中心地になっていったのです。東京では衰退していったものが、大阪では第二次大戦後まで栄えていました」と林野さんは説明した。
 「村田香谷(むらた・こうこく:1831-1912)は九州出身の画家です。中国に何度も行った経験を持つため、住友家が贔屓(ひいき)にしました。住友家の当主は自ら中国に行くことが出来ない。そこで、香谷に画材を買ってきてもらったり、画家を通して知識を得ていました。パトロンが所有していたために、世に作品が出てこなかったくらいです」(林野さん)。
 船場派は大阪独自の発展を遂げたという。
 「床の間を飾るものなので、あっさりとしたものが好まれました。展覧会向けの絵はどうしても色が強くなってしまいます。大阪の画家たちがよしとしたのはあっさりしたもの。そういうのは展覧会を通らない。しかし、大阪の画家たちにはパトロンがいたので、展覧会で賞を取って名をあげる必要がなく、生活が出来ていたのです」と林野さんは説明した。
 林野さんは続けた。「かつての大阪は変わることを嫌う傾向がありました。菅楯彦は江戸時代の風情を愛しており、大阪で人気があった。しかし、戦後は見向きもされなくなり、美術史の中から消えてしまったのです」。

矢野橋村《不動窟》1951年、矢野一郎氏(愛媛県美術館寄託)[展示期間5月16日-6月11日)

 大阪中之島美術館が長年かけて収集したコレクションと、全国から集められた優品とをあわせた約150点が出品されている(会期中展示替あり)。
 本展はすでに2023年1月から4月初めにかけて大阪中之島美術館で開館1周年記念特別展として開かれていた。その巡回展だ。
 休館日は月曜日(ただし、6月5日は開館)。開館時間は午前10時から午後6時まで(金曜日は午後8時まで)。入館は閉館30分前まで。入館料は一般1400円、高校・大学生1200円、中学生以下無料。
 東京ステーションギャラリーの連絡先は電話03-3212-2485あるいはhttps://www.ejrcf.or.jp/gallery/。JR東京駅丸の内北口改札前。


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