エレベータに女の香りが残っていた


 そういう経験は、日常のそこかしこに転がっている。俺たちはそのほとんどを覚えていることは出来ないのだけれど。


 女の香りというのは勿論比喩というか幻想で、一般的な意味における女が何かしら特殊な香りを有しているのではない。俺が嗅いだのは、薔薇だか百合だか知らないけれど、何かそうした花らしきものの姿を彷彿とさせる、安らぎと苛立ちを三日三晩寝かせて発酵させたようなああいう類の香りである。香水なのか柔軟剤なのか整髪料なのか、とんと判然としないが、ともかくエレベータの中には誰かの残したそういう香りが奥ゆかしく漂っていた。


 そうした経験は、どこか新鮮な印象をもって感覚やら感性を弄って、普段は使われていない扉をこじ開けようとしてくれるのだけれど、刻一刻と迫ってくる「しなければならないこと」という名のどうでもよいことのおかげで、エレベータを降りた次の瞬間には女の香りの経験はふっとどこかに消えてしまう。とても脆くて、とても淋しい。

 
 そういう細やかな経験をどうにか拾い上げたいという欲望を人間は持っていて、だから昔の人は歌を詠んだのかもしれないし、現代人はツイッターに一言呟いたり、写真を撮ってインスタグラムで共有したりするのかもしれない(きっとそうではないだろう)。


 香りが残っていたという経験は、一瞬前までの他者の存在と、目下この時の他者の不在とを同時に意味する。それを女の香りと感じたことは、俺の中に染み込んでいる認識の一定の偏りを示唆する。だからどうしたというわけでも無いけれど、ともかく書いておけば、エレベータの香りはなにがしかの意味をもつ。


 エレベータに乗っていた女がどういう女であったか(あるいはそもそも女であったか)まるで知らないが、生きていれば勝手にそうした痕跡が残っていく。この十年くらい流行り続けていて、もはや流行りですら無くなったSNSというのは、痕跡を露骨に残していくツールであるが、露骨が過ぎて嘔吐感を催すこともしばしばある。


 嘔吐感に耐えられなくて、俺はツイッターから離れたのだけれど、それでも自分の残り香を誰かに嗅ぎ取ってもらいたい。そんな浅ましい欲望からは逃れることが出来ないでいて、だからこうして何か文章のようなものを書こうと思った。


エレベータに女の香りが残っていた。


そういうことを、書いていこうと思う。

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