髪の毛が濡れている理由は思い出せないけれど

 世界五分前仮説という思考実験が俺は大好きで、ほとんどこの世の真理が込められているとまで感じている。

 例えば今年30歳になった人は、これまで30年の間この世界に存在してきたと感じているし、自分が生まれるずっと前から世界は存在していていると信じている。

 地球の誕生が45億年前だとか、宇宙は現在138億歳だとか、そういう具体的な数字そのものにピンと来ているわけでは無いけれど、自分が存在するよりずっと前から世界というものは存在していて、自分という存在もその連続性の一端を担うものだと当然のように信じて生きている。

 ところが、そういう世界の連続性を実際の体験としてとらえることは、どんな人にとっても不可能である。45億年も存在し続けてきた人はどこを探したって見つかりっこないし、そもそも30年という短い人生ですら、その全ての時間を記憶するなどということは不可能だ。

 これまで地球は45億年存在していて、人類は300万年前に誕生して、そこから文明を発展させてきて、今では世界中に200弱の国と70億を超える人が住んでいて、その中の日本という国に自分という存在が30年前に誕生して、あの学校に通ったりその人たちと付き合ったりして、今こういう仕事をして暮らしていて云々といった、今自分をとりまく全ての状況やその背景などが、もろもろ全て「設定」に過ぎないものだとしたら。

 世界はずっと連続して存在してきたものではなくて、そういう「設定」のもと、たった五分前に誕生したものだと仮定したとして、その仮定が誤りだということを一体どうやって証明すればよいのだろう。仮に世界の連続性というものがただの「設定」でしか無いものだったとして、今の自分の生活に果たして本質的な意味をもちうるのだろうか。

 ざっくり言うと、それが世界五分前仮説という思考実験で、イギリスのバートランド・ラッセルが最初に提唱したらしい。(それも「設定」なのかもしれないけれども、俺はそれを検証する術をもたない)

 

 現実に世界は連続しているということは俺たち一人ひとりの現に生きている人間にとって疑いようのない事実だとしても、そうした仮説を挟み込んでも何ら世界は矛盾を犯さないのだ、という点に世界五分前仮説の面白みはあるとされるのだけれど、俺は最近わりと本気で世界は五分前に出来たのかもしれないと思い始めている。

 単純な話で、俺は五分前はおろか、五秒前の記憶すら無くして平気で生活しているからだ。

 ソックスを取ろうと押し入れに向かって、ベルトを取って戻ってくる。

 コーヒーを淹れようとお湯を沸かして、そのまま一時間読書にふける。

 出勤ついでにゴミを出そうと思い、玄関にゴミ袋を放置して出かける。

 リンスをするべき段になって、シャンプーをしたかどうか忘れている。

 こういう些細なド忘れは枚挙に暇がない。

 最後のシャンプーの例などはなかなか深刻で、ほとんど毎日のように俺は今髪の毛が濡れていることについて、シャンプーをするための準備であるのか、シャンプーを洗い流した結果であるのか判断がつかないから、リンスの倍程度の速度でシャンプーが無駄に消費されてしまっている。

 五秒前の自分の行動とすら現在の自分の状態とが連続していないということが往々にしてある。だとすれば自分というのは、一貫した連続的存在ではなく、その場その場で間欠的に生じてくる現象のようなものとして捉えたほうが適切なのではないか。五秒前の記憶すら定かではないのに、数十年同一の存在であり続けたと信じる方がひどい錯覚でありはしないか。

 そんなことをふと考えてしまうと、途端に自分の連続性というものが信じられなくなった。信じられなくなっても別段困りはしないし、相変わらず一応連続した存在として振る舞って生きているのだけれど、自分が仮に連続していなくても、自分はここに何の矛盾もなく存在することが出来るということはそれなりに面白いし、とても楽観的だ。


 もう一つ面白いのは、あやふやな五秒前の記憶は、その時点では決して思い出されることはなく、五秒後の現実によって後付けで思い出されるということである。

 五秒前にシャンプーをしたのかどうか覚えていなくても、実際にシャンプーをしてみれば、髪の毛が異常に泡でもこもこになる。ゴミ袋をもって出かけるのだということを完全に失念していたとしても、玄関を開けて外に出れば、道端にゴミ袋が置かれている。

 そうした五秒後の現実があって、「ああ、髪が泡立つということは俺は既にシャンプーをしていたのだな」「そういえばゴミを出すつもりで玄関先まで袋を運んでいたな」と初めて気づき、その限りにおいて、俺は俺の連続性を取り戻す(かのように錯覚する)ことが出来る。そんな風にして俺は俺として生きることが辛うじて出来ているのかもしれない。


 ところで、俺は睡眠をとると100%の確率で夢を見る。

 夢の世界というものは、現実(と俺が認識しているところの世界についての断片的な記憶)と半ば繋がり半ば隔たっている。夢だからそれほど内容をはっきり覚えているわけではないけれど、それは現実も同じようなものだ。五秒前に夢で見た記憶があやふやであるのと同じくらい、五秒前に現実で行った記憶もあやふやである。

 それでもどうして俺が夢の世界と現実の世界を一応識別出来るのかというと、起きた時に見た部屋の様子に合わせて現実の記憶を後付で思い出しているからではないかと思う。寝る前の記憶などというものが事前にあって、それに照らし合わせる形で現実と夢とを区別しているのではなくて、今目にしている状況に合わせる形で「現実」の記憶はそのつど作られているのではないか。

 だから例えば俺が眠っている間に、俺が眠りに落ちた場所と全く異なる場所に移されてそこで目覚めたとすれば、俺はその場所で今まで生きてきたのだと思って存在するようになるのでは無いかと思う。あるいはグレゴール・ザムザのように朝起きたら虫けらの姿に変わっていたとしても、俺は「虫に変身してしまった」などと思えず、最初から「俺はもとより虫であった」と思って存在を続けるのではないかと思う。

 そんなどうでもよいことを考えながら、俺は今日もいろいろな人と、「昨日までの話」を共有して生活している。それは多分、とても幸せなことであるに違いないのである。

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