無音に還る(Pさん)

 久しぶりにnoteの記事を書いてみる。
 相変わらず、前よりも細々としか読めない書けない日々を送っている。
 目的を見失いそうである。
 西谷修の『不死のワンダーランド』を読んでいる。
 佐々木中が、ブランショの不死のエピソードをどこかに書いていたけれども、いわばその元ネタがここにあった。
 レヴィナス、バタイユ、ブランショという一時期のフランス思想の中心核に当たる人々が、なぜ珍重されるのかというのも、わかるような気がする。ハイデガーもそうだけど、結局万人に共通のテーマというものは、死しかないのでもあろうか。
 もう一つの、西谷修の『破局のプリズム』は、そういう、思想⇔戦争観みたいなものを踏まえた時評という趣だった。日々起こる小さな戦争みたいなものを取り上げている。いや、西谷修にしてみれば、戦争は、第二次世界大戦を機に、終わらないものとして始まった。終わったものとして掩蔽して日常を平和に送らせながら戦争を続けている。誰も、戦争がもう終わらないものだなどと信じたくないし、また大々的な開戦というものもさすがにそんなことは起こらないだろうとしか思えず、それゆえに開戦も停戦も終戦もしない戦争がずっと続いている、という論旨だった。それを受けていれば、自然と、その掩蔽された平和と戦争というものを、つぶさに追っていかざるを得ないのでもあろう。
 実はそんな脇で崩れかけのラジオで課されている課題本というのもある。困ったもんだ。
 読書や書き物をしている際に、今まで決まってBGMを流したりしていたけど、同じ曲や、同系統の曲を流しているとどうしても飽きてしまう。なのでBGMを流しながら、それをせわしなく選んでいるなんていう本末転倒なこともあったりしたけれども、今の『不死のワンダーランド』を熱心に読みながら、気がついたら無音だった。究極的に無音に辿り着いたのだろうか。しかし、やっぱり音がないと落ち着かない。今度は一昔前の邦楽を流している。

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