そばの合理性 その他(Pさん)

 Pさんです。
 最近、マイブームみたいなものが到来して毎日のように蕎麦を食っていて、はじめは健康の為と思って半ば習慣づけのように食っていたのですが、安い乾麺から二八蕎麦、十割蕎麦や生麺タイプなどに手を出すに付け、その微妙な味の変化、シンプルさに惹かれ、好んで食うようになりました。
 蕎麦は数字的に合理的であり、なぜかどの蕎麦の束を見ても一食分がきっかり100g。二食分入っている蕎麦だと束に分かれていなくても200g。スーパーに行ってどれを見ても例外はありませんでした。二八蕎麦はそば粉が80%に小麦粉等が20%。十割蕎麦はその名の通り蕎麦粉が100%。何でなんでしょうか。
 蕎麦は全て盛りそばにしているのですが、蕎麦湯を必ず取って食後に飲んでいます。これ自体旨いのもあり、また栄養的にも良いと聞いているし、何より「凝った食い方をしている」感があって、やめられませんね。
 この感覚は、何に例えられるだろうか。
 同じようなことだと、つけ麺のつけ汁を最後にスープで割って飲む「割りスープ」または「スープ割り」と呼ばれている行為も似たような歓びがありますね。
 焼酎に梅干しを入れて飲むというのも、ずいぶん前に飲んだくれの友人に教わって、今でもたまにやります。コロナビールにライムをねじ入れる事も……。あれは、空き瓶を回収する人間に迷惑じゃ無いんだろうかとつい考えてしまいます。
 牛丼屋の松屋によく通っていた頃、インターネットで「岩倉スペシャル」という食べ方が流行っていて、それは松屋に必ず用意してある調味料の配合を指すのですが、そんなのにもハマっていました。
 あとは何だろうな。食い物に限らず、「お、そういう工夫をしてるんだ。うらやましい……」と感じさせるような何事か。
 電車に詳しい人が、「青春18きっぷ」という、JRの一日鈍行乗り放題という券を利用して途中下車しまくる旅をしているのも、似たようなところがあるかも知れません。
 他にも何かあったら教えて下さい。

 別の話題。
 かねてから実家の親にそろそろ置きっ放しにしている本を持って行けと言われ続けていたのですがこちらの方でも無視し続け、まあいずれやりますとごまかし続けてきたのが遂に親も待ちきれなかったらしく、自分で引っ越し業者的な荷物の運送を行っている会社に電話してそれらの本を昨日の早朝、送りつけられてしまいました。
 もう良い年になる親に何をやらせているんだろうと情けなく、また無責任にも単に面倒くさいことが降ってきたように思っているのですが、昔の本を掘り起こすのはこれまた精神的な刺激になってたまには良い物だと思いました。
 文芸の同人活動を始めた当時の機関誌が出て来て、現在自分が書いているものと引き比べ、今言えることなのかわかりませんがやはり五年前は未熟であったなあとは思うのですが、それ以上に書くスタンスが基本的には何一つといっていいほど変化していないことの方に驚きが大きかったです。
 保坂和志が、ピカソなど大天才も含めて広く芸術家はその世界に持ち込める独創的と言える要素が一つあれば良い、多くて二つや三つだということを言っていました。一つ何かその人独自と言えるものを持ち込んだら、表面的なこと以外は変化しないでその一つだけがある、といったような意味だったと思います。プロの言って感じる事と比べるのもおこがましいところがありますが、自分の書いている物においても、その変化しない物については、自分がいかに自由な振る舞いをしていると思い込んでいても、やはりいかんとも動かしがたいもののように思いますね。
 それは意図して継続している何事かというよりも、口癖や一生続く好悪のリストのようなもので、交通事故とか記憶喪失があれば変わるのかも知れないけれどもそんな変化は成長する上でも別に必要としない、といった類いのものなんじゃないかと思います。その枠内で何かが変化成長していくんでしょう。今度はそれを探らないといけないわけです。
 荷物を掘り起こしていたらハンズフリーのヘッドセットや超小型のシンセサイザー、万年筆など今も買っている物が出て来て、こういう趣味もぜんぜん変化がないんだなと思いました……。
 次回はスーザン・ボイルの語られすぎた数奇な人生の顛末について語りません。

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