やまない不安と付き合うということ
頭から布団をかぶって、消えてしまいたいと願った日。
キッチンの床に張りついて、家族の目もはばからず、泣き叫んだ日。
いつか、そんなこともあったねって、心穏やかに思い起こせる日が来ること。
そしてまた、そういう日が巡ってくるかもしれないこと。
◎◎◎
日々日常を生きているだけで、我ながらいい加減にしろと思うほど、不安が湧いて湧いてくる。
仕事が一番の繁忙期に差し掛かっている今、問題なくこの佳境を乗り越えられるだろうか。
私の将来を決める大事な決断は、この道で良かったのだろうか。うまくいくのだろうか。
電車に乗っているだけで生命を脅かされるような昨今、私の大切な人たちが、歪んだ悪意に傷つけられてしまう日が来るかもしれない。
自然災害で、希望もなにもかも、全てが潰れてしまう日が来るかもしれない。
そんなことを言い出したら、本当にきりがないのだけど、もう絶望には出会いたくない、なるだけ穏やかなまま、人生を終えたいと願ってしまう。
たった24年しか生きていないけれど、悲しみや絶望は、もう見たくない。
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ただ、今までに抱えてきた不安の多くは、結局杞憂に終わっていることも忘れているわけではなくて。
実際に、抱いた不安が的中したことがあったとしても、今を生きているということは、乗り越えられてきたということ。
たとえ乗り越えられずに、締めつけられそうな夜を無数に過ごしたとしても、それは決して悪いだけのものではないこと。
もちろん、そんな夜はないほうがよいのだけど、そんな時間を過ごしたからこそ、生まれるものが必ずあるということ。
経験した感情は、いつかぜんぶ文字にして、作品にしてしまえばいいのだ。
そうして、そんな救いのない状況を癒してくれるために、愛しい文学や音楽が存在しているということ。
彼らはなにがあっても私を見捨てることはないということ。
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時に、どんなに満ち足りた、全身に染み入るようなしあわせに出会えたとしても、これまでに目の当たりにしてきた絶望や悲しみや、抱えている不安をなかったことにはできない。
絶望には出会いたくないと強く願うけれど、反対に、これからの人生、どれだけしあわせに出会うことができるのかもわからない。
むしろ、しあわせとその崩壊は隣り合わせなのが世の常だ。
なんて、ぐだぐだ言いつつも、なんだかんだ、これまでの人生、自分でつかんできたしあわせと、だいすきな人たちが私に授けてくださったしあわせは決して少なくはなかったし、これからも、自分とだいすきな人たちをきちんと愛して、愛を伝えて、人生を積み重ねていきたいと、自らに祈るばかり。
しあわせの裏側には闇があることもあるけれど、闇の先、一寸先はまだ暗くても、二寸先にはもしかしたら、ほんの少し光が見えるかもしれない。
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常に最悪の事態を想定して、勝手に怯えるのをやめること。
だいじょうぶ、世の全てが私の敵に回ることなんて、そうそうないから。
ただ目の前のことをこなして、粛々と生きること。
叶えたい夢を思い描きながら、ひとりで夜の繁華街を突っ切って歩いて、
ふと泣きたくなる瞬間に思い出したくて、書きました。
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