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他ならぬ小川洋子さんへの敬愛

最愛の小川洋子さんの企画展示が開催されていると聞いて、岡山市の吉備路文学館を訪ねてきました。

企画展示は、決して広くはない展示室1室分のみでしたが、そこは、私が約15年愛する小川洋子さんそのものがぎゅっと凝縮された、夢のような空間でした。

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私が小川洋子作品に出会ったのは、小学校4年生になったばかりの頃。桜が咲いて、用済みとなった姉の中学受験用の教材から国語の問題集だけを引っ張り出し、文章読解に取り上げられている参考文献を拾い読みするのが毎日の楽しみでした。そこで『博士の愛した数式』の一部が目に留まり、親にねだって文庫を買ってもらったのが始まりでした。

その後すぐ、『薬指の標本』や『海』、『密やかな結晶』と、次から次へと自身は読書習慣のない母にねだりました。

当時はまだ、小川洋子さんのどこが好きと聞かれても、「文体が好き」と表現する以外に言葉を持っていなかった記憶があります。ただ子供心に、日本語の強さと美しさを十二分に引き出しながらも、この上なく上品な文章に、敬意と憧れと夢を抱いたのだろうと、今振り返って思います。

そして、『薬指の標本』に描かれるような、狂気的で官能的なシーンも、目で文字を追うだけで、クラスメイトよりも少し大人になったような、自分だけの甘い秘密を持っているような、そんな気分になれました。深い意味はわからなくても、それは心地よいものだったのでしょう。

実際、もう少しお姉さんになってから読み返して、小学生の頃は描かれているシーンを何も理解しておらず、また理解できていないことすらわかっていなかったことが判明しています。


そののちこれまで、溺れるように彼女の小説やエッセイや対談集を読みあさり、ほぼすべての作品は手元に置いて読破しています。「ほぼ」というのは、愛するがあまり常に「未読の小川洋子作品」をとっておきたくて、全部読み切ってしまわないように我慢しています。

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小川洋子さんは、小説執筆の際、こういうストーリーにしようとか、登場人物にこんなことを言わせようとか、考えすぎることはなく、構想した人物たちがおのずと動き出した情景を自分はただ言葉にしていくだけ、というようなことをよく仰っています。作家の影をなるべく削り落とした方が良いものができる、とも。

そのせいか、彼女の小説を読んでいるときは、これは小川洋子さんの手によって書かれたものだと頭では理解しつつも、美しい映画に作者と肩を並べて観入っているかのような、おこがましい錯覚に陥ります。

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近年、国際的な評価も高まり、ノーベル文学賞受賞者予想のようなところでもお名前が見受けられるようになりました。

小学生の頃からずっと、何十本もの映画を一緒に観てきたお姉さん(と傲慢にも思っている)が、急に遠いところへ行ってしまわれたような寂しさ(もともと遠いよ)があるかと思いきや、むしろすごくすごくうれしくて、早く受賞されないかなあとまで思ってしまっています。

ノーベル文学賞なんて受賞されようがされまいが、私の小川洋子さんへの愛には何の関係もないのですが、慎ましやかな美しさと慈愛に満ちた彼女の作品が認められる世の中というのは、これまで目にしてきた世の中よりも少しばかり息のしやすい世界ではないかと、期待してしまうのです。

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どの著書を開いても、どこを切り取っても、決して裏切られない世界がそこにはあること、それは私が日々死なないでいられる大きな理由のひとつになっていることは間違いないです。

以上、ただただ重い、私の小川洋子さんへの敬愛でした。


#読書 #小川洋子

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