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生きる意味より、死なないでいる理由

大学4年の秋、私は大学図書館の閲覧席から、突然立ち上がれなくなりました。
ひどく感動する本を読んでいたとかではありません。講義の合間に、卒業論文の資料を探しに来ていて、そろそろ次の講義の時間だから行かないと、そう思ったときでした。

次の講義は、とても尊敬する教授の、本当に面白いもので、毎週楽しみにしていました。卒業まであと少し、残り少ない講義が寂しくてしょうがないくらいでした。

そんなだから、講義に出席したくなくて、身体が動かないわけではありません。ただ、どうにもこうにも身体が重くて動けなくて、その日の出席は泣く泣くあきらめました。おそらくそのまま家に帰ったのだと思いますが、いったいどうやって帰宅したのか、記憶はさっぱりありません。

その日から、数ヶ月に渡る苦しい日々が始まりました。

身体は文字通り鉛のように重くて起き上がれず、やっと座ってみたとしても、腕や脚は重力に逆らうことができません。iPhoneも、お箸でさえも、重くて持つのがつらくなりました。

そして、人一倍多趣味で好奇心旺盛だった私が、驚くほど何物に関しても興味を失っていきました。

お気に入りのお洋服を着て、その日の気分に合わせたメイクをして、出掛けてゆくのが何よりの楽しみだったはずが、おしゃれなんて心底どうでもよくなりました。
毎日のように駅ビルに寄り道し、コスメやアクセサリーのウィンドウショッピングをしても飽きることを知らなかった私が、自分のクローゼットに一切見向きもしなくなりました。
もう2度と、楽しい気分でショッピングしたりメイクしたりすることはできないんだろうなと、本気で考えました。

食べることも大好きだったのに、食欲も消えました。何せ、お箸やフォークも重くて持てないのだから、食べる気になれません。食事の時間も憂鬱でした。
そもそもベッドから起き上がるのがつらいのです。

ベッドに仰向けになり、もう見飽きた天井を眺めながら、このまま点滴で栄養剤だけ打って、寝たきりの人生を送らせてもらえないかしら。
そんな考えが何度も頭をよぎりました。

死んでしまうには、三途の河を越えるエネルギーが必要そうでしたし、そんな力はもう残っていませんでした。

こんなふうになった原因はわかっていました。

まず、就職活動。
もうこの頃には、内定先が決まって既に数ヶ月が経っていましたが、その疲れはまったくと言っていいほど癒えていませんでした。

そして、執筆真っ最中だった卒業論文。
私はこの卒業論文に関して、必要以上に自分にプレッシャーを掛けていました。

絶対に、世間一般よりレベルの高い卒論を書くんだと意気込んでいました。表向きは、人生でまとまった論文を書くのは最初で最後かもしれないから、という動機ですが、実際のところは、大好きな教授に自分を認めてもらいたい一心でした。

最後に、こちらも大きな原因のひとつ。母とのぶつかり合いも、この時期、まだ続いていました。
詳細は、こちらの過去記事に。

秋にはエスカレートし、母との間で人生最大のいさかいもありました。

私自身、心身のバランスを崩して情緒不安定になっているのに加えて、そんな私を見て、一つ屋根の下で暮らしている母のほうも、日に日に情緒不安定になってゆきました。

もう、うまくいくはずがありません。

ある日、母が私に向かって
「もう、しんどいしんどいばかり言わないで!私だって、毎日しんどい!」
と言い捨てました。

その瞬間、今まで耐えて耐えて、耐えてきた限界が切れました。

私は本当に体調が悪いのに、本当は全力を尽くしたい卒論にすら手がつかないのに、
寄り添ってくれるどころか信じてくれることすらせず、「自分の方が」とマウントを取ってくる。
そうしてそういう人間が、自分の実の母であること。
22年間、信じて愛して誰よりも頼ってきた人間であること。

もう、この世に存在する全ての絶望をかき集めてきたかのような無力感と、そして憎しみとが押し寄せてきて、
今までどんなに思っても、言いたくても叫びたくても、これだけはと思って必死で我慢してきた言葉が、ここに来て堤防を乗り越えてしまいました。

「死ねばいいのに!」

それだけ叫んで部屋を飛び出し、2階の自室に転がり込みました。

そうしてベッドの上で、めちゃくちゃに泣きました。決して言ってはいけないことを言ってしまったはずなのに、不思議と後悔の念や自責の念は湧いてこず、むしろお腹のどこかがすっきりした気分でした。そして、その事実にますます絶望してますます泣きました。

少し冷静になって、今後のことを想像します。
人間として、最も恐ろしく残忍な言葉を、それも実の母に向けて吐いてしまった事実、もう2度と母と顔を合わせたくないと考えました。

2度と顔を合わせないためにはどうするか。
実家なので、今いるこの自室を一歩出れば、出くわしてしまいます。

今、この部屋のなかで死んでしまえばいいんだ。

そう思いました。
そして、死ぬための方法を探して、部屋を見渡しました。

首をつるか、よくわからないけれど何とかガスとかで、何とか中毒になるか。

しかし、部屋にはロープもなく、むずかしい名前のガスももちろんありません。

今になって振り返れば、ベルトでもマフラーでも、なんなりとクローゼットにつるせばよかったのでしょうが(よくない)、そのときはもう体力面でも精神面でもいっぱいいっぱいで、機転というものが全く利きませんでした。

死ぬ術がなにもないことに気づいた私は、さらに絶望の底に突き落とされた気分で、余計に泣くしかありませんでした。

このあとどうしたか、もう記憶がないのですが、このとき頭が回ってくれなかったおかげで、私はまだなんとか生きながらえています。
部屋でマフラーを見るたび、トレンチコートのベルトを見るたび、よく今生きているなあ、と思います。

三途の河を渡るエネルギーもないけれど、こんなに日々重い身体と感情の起伏を背負って生きるなら、もう、存在を消してしまえばどんなに楽だろうと、毎日考えました。
ずっとベッドに横になっていて、ご飯を食べずにじっとしていれば、静かに最期を迎えられるんじゃないかと。
むしろ、そうすれば絶対に楽なのに、なんでみんなその道を選ばずに生きてるんだろう?とも。

◎◎◎

毎日、目が覚めて、

「今日はどうしよう?生きる?それとも生きるのやめる?」

という、自問自答の繰り返し。
たとえ無意識のうちでも、日々その積み重ねで、できあがっていくのが数十年に及ぶ人生。

それでも23年間、1日たりとも「生きるのやめる」を選ぶことがなかった理由が、何かしらあるはず。

その理由になるものは、夢とか希望とか、そんな華やかなものではなく、もっとささやかで、言うなれば地味なもので、
でも地道な人生、たとえどんなに地味でも「死なないでいる理由」をひとつひとつかき集めていくのが、生きながらえる術なのではないかと。

自分への愛をためらいもなく表現してくれる人。
夢を語れば応援してくれる人。
そっと心を支えてくれる宇多田ヒカルの歌。
美しい景色をいくらでも見せてくれる小川洋子の小説。
フランシスクルジャンの香水の香り。
私の誕生月に咲いてくれる薔薇の花。

こうしてひとつずつ、生きていくうえで、必要な光を毎日生きながら見つけていくこと。

すべてをいつも心に留めておくのは難しいけれど、絶望の淵から足を踏み出してしまいそうになったとき、そういえば、と思い出して、踏みとどまるきっかけになれるものばかり。

生きる意味とか、理由とか、そんなキラキラしたものを見つけようとしても、私には荷が重いのです。


生きる意味より、死なないでいる理由。


(敬称略)

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