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〝健康的な向上心〟を模索する

「ellieちゃんって向上心すごいよね。そんなにあれもこれもできるようになりたいなんて、私思ったことない。」

昨年の秋、友人が言った。京都のホテルで、ちょっと贅沢なアフタヌーンティーをしていたときのこと。

彼女の言葉に私はとにかく驚いて目を見開いた。
自分に向上心というものがあるらしいことに。それも彼女を上回る向上心が。

なんせ、当の彼女は私の何倍もキラキラ輝いている人だ。頭脳明晰でとにかくハイセンス、多少のリスクを負ってでも夢を追う度胸があり、そしてきちんと結果を出す人だ。そのぶん、歳相応に挫折も経験し、人間として私よりひとまわりもふたまわりも魅力的な人だ。

一方私は、中学高校大学と、エスカレーターで進学し、お勉強ができたのは既に過去の話で、就職活動の面接で挫折経験を話してくださいと言われれば途端に言葉を失うような、薄っぺらい人間だ。

そんな彼女がこんな私に向かって、自分より向上心があるという。私が彼女にまさる(言葉が適切でないが)ものがあるということを張本人の口から聞き、にわかには信じられなかったが、悪い気はしなかった。
むしろ、当時なかなかにメンタルを病んでおり、その概念すら失われていた自己肯定感というものが、少しずつ湧き出てくるのを感じた。

そうか私には向上心があるのか。

22年間生きてきて、気づかなかった。考えたこともなかった。この数ヶ月前まで必死に就職活動をし、自己分析をしていたつもりだったのに。全然分析できてないじゃないか。だから就活であんなに苦労したのか。なんて。


思い返せば、日々私の頭の中は向上心ゆえの考え事で一杯だ。

文章うまく書けるようになりたい、
フランス語と英語マスターしなきゃ、
ヴァイオリン上手にならないと、
ピアノも弾けるようになりたい、
歌も歌えるようになりたい、
母親よりおいしいご飯を作れるようになるんだ、
魚捌けるようにならなきゃ、(?)
、、、、、、


常にこれらのことが頭の中で交錯している。上記のはほんの一部で、あと2倍、いや3倍はゆうにあるだろう。他人に言えば確実に馬鹿にされるような壮大な夢もある。
ちなみに母親のご飯は充分おいしいです。

彼女が指摘したのはこれらのことかと思う。常にあれもやりたいこれもやりたい、と頭がぐるぐるしているせいで、人と会話している時も、無意識に、私将来こういうことできるようになりたいんだよね、と随所に挟みがちだ。

向上心すごいね、と尊敬できる人に言われ、完全に底をつきていた自己肯定感を少しだけ取り戻していた。というか、それを支えに自分というものを肯定しようと、昨年の秋の私は自分に言い聞かせていた。


しかし、それでは一向に楽になれなかった。
自分で自分を認められる方法をひとつ与えてもらったはずなのに、下手したら以前よりもどんどん苦しくなっているような気がする。

「向上心」を自己肯定の手段とした結果、これまでよりさらに自分を追い詰めることになっていると気づくのに、それからさほど時間はかからなかった。


向上心すごいよね、と言ってもらうよりずっと前の中学生くらいから、私は自分で自分のアラを見つけて責め立てるのが大得意だった。

ヴァイオリンが上手くなりたいはずなのに、練習せずにベッドに入ってしまった日には、罪悪感で押し潰されていた。楽器とは1日弾かなければ3日遅れるものだと幼少期からすり込まれているせいで、それが積み重なればどんどん目標とする音色から遠ざかってしまう、と恐怖に怯えながら眠った。

レッスンで思うように弾けなかった日は、もうアスファルトに埋まってしまいたいと思いながら駅までの道を身体を引きずるように帰った。貴重な1回のレッスンを無駄にしてしまった、ちゃんと弾けていれば新しいことを教えてもらえたかもしれないのに、、、などと脳内無限ループしていた。

自分はダメダメだ。でも、向上心だけはあるらしい。友人が例のことを言ってくれてから、それを支えに生きることにした。


しかしそうすることで、予期せぬバグが起こった。
私みたいな人間が、向上心を支えに生きることにすると、どうなるか。

疲れてヴァイオリンに触れずベッドに入ってしまった夜は、「向上心だけが取り柄なはずなのに、上手くなるための練習もしないなんて向上心もなにもないじゃん、、、」となり、

レッスンで練習不足を指摘された時も、「やっぱり向上心もなにも私にはないじゃん!練習もできてないんだし!」となる。

これはほんの一例で、生活のすべてに於いてこのバグが起きるのだ。

運悪く、興味あるものやできるようになりたいことが多すぎるせいで、ああ今日はフランス語の勉強ができなかった、今日は本が読めなかった、今日は、、、というふうに、毎晩その日できなかったことを挙げて自分を責めるようになってしまった。
それはまあ以前から変わらないといえば変わらないのだが、それに加えて「私は向上心だけが取り柄なのに、それもできないなんて、、、」と、更にマイナス要素が加担するようになった。

向上心とはこんなに人を苦しめるものなのか。
本来良いもののはずではないか?

世間的には向上心とはどんなものなのだろうと、「向上心」でググると、「向上心を高める方法」「面接で向上心を効果的にアピールするポイント」など、「向上心」はやはりポジティブに捉えられていた。
少なくとも検索結果上位には、「向上心を控えめにする方法」や「向上心のせいで苦しい」なんてものは見受けられなかった。

やはり向上心は良いものらしい。では、それを扱う私のやり方が間違っているのだ。

そもそも、あれもこれもできなかった、と夜中に反省会して自分を苦しめてしまうのも、何かができるようになりたい向上心ゆえだ。私の向上心は、向上心という名のただの現状否定だったのかもしれない。
自分の中にあふれかえる向上心と、上手に付き合う方法を模索することにした。

向上心は、人を夢に向かって積極的に行動させるからこそポジティブなものと捉えられる。私の場合は完全に病ませるツールと化していたので、当然ポジティブなものとはかけ離れていた。では、自分をご機嫌にさせるために、そのあふれかえる向上心を用いればいいのだ。

自分の機嫌を取るための向上心を、
〝健康的な向上心〟と呼ぶことにした。

今まで私が持っていた向上心は、圧倒的不健康。それを少しずつヘルシーなものに切り替えていく。すぐにはできないかもしれないけれど、自分の人生をよりよいものにしたいという向上心のある私ならできるはず、と。

夜に、あれができなかった、と思わないこと。

以前、私が「今日これしかできなかった、、」と嘆いた際、母が「でもそれはできたんでしょう?」とすかさず言ってくれた。常にそれを自分で自分に対して言いたい。

精神科医の岡田尊司先生が著書で述べられていたこと。
「不安やイライラで生活や人生を腐らせるのではなく、それは一生懸命生きている証であると受け止めること」(『回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち』光文社新書 2013年刊行より)

これを常に心に留めておきたい。もっとも、不安やイライラの最中は、こんなこと思い出す余裕などなかなかないのだけど、少し落ち着いた時に、これは私が頑張って生きてる証拠なんだ、と思えるということは大事なことだろう。

どんなに他者に認められたって、褒められたって、それが直接救いにはならないし、結局自分を救えるのは自分しかいないんだと日々改めて実感する。

他者に褒められることだけをモチベーションに、闇雲に突き進んでいた時期も長かったけれど、いくら他者に褒められたって、自分がそれで利口になったり、成長することは決して無い。

幸い私には、人一倍の向上心と好奇心がある。おかげで日々焦燥感に追われがちだが、
それを生かすも殺すも自分次第、健康的に、有意義に、扱える術を模索していくことにする。


#夢  #向上心 #生き方 #エッセイ

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