パラノイアな祖父を巡る旅 4

あらすじ

 ドキュメンタリー動画を撮ることになった僕は、祖父と父の関係について取材することに決める。祖父は誇大妄想症で自分が「天皇の子孫」だと語っていた。一方、その息子である父は天皇に嫌悪感を示していた。
 僕は祖父が誇大妄想症であったことを示す『あるもの』を探すために、かつて祖父と父が住んでいた宇治の家を訪ねる。実家のある大阪から宇治までの道中、祖父の誇大妄想が生まれた原因が「襖の下張り」と親族間での土地の相続問題にあったことが父によって明らかになる。
 続いて僕は、父が誇大妄想を患っていた祖父のことをどう思っていたのか尋ねた。父は質問には答えず、自分が大学に入学した1980年のことを話し始めた…


「俺が大学に入ったのは1980年の4月で、その後すぐ5月にコウシュウ事件ってのが起こった。知ってるか? 光る州で光州」

「分からん」と僕は答えた。

「簡単に言うと、市民による軍事独裁政権の追放や。韓国はそれまで軍事独裁政権やったんやけど、市民がそれに反対して立ち上がって、軍政の支配から市を解放したんや。それが光州事件。その運動に大学生が関わっててな、ほんまに命かけて戦ってた。何人か実際に死んでたしな。それがかなりの衝撃で、『俺は大学でのほほんと勉強してて良いんか』って思うようになったんや。今でこそ韓国は旅行で行くようなええ場所やけど、その時はもう行ったら生きて帰られへんようなイメージがあった」

「今で言うと北朝鮮みたいな感じ?」と僕は尋ねた。

「北朝鮮は社会主義やからちょっと違う」と父は答えた。僕は国の雰囲気を大まかに言っただけのつもりだったのだが、父はそんな大雑把なことは許さなかった。

「韓国なんか、飛行機乗ったら2時間で着くような場所やろ? そんな場所で、パリコミューンの革命みたいなことが起こったんや。それに衝撃を受けて、俺は大学で平和運動とかを始めたんや」

 平和運動、反体制、学生運動。僕は『ノルウェイの森』の舞台が1968年であることを思い出しながら言った。

「そういう反体制みたいな活動ってその時代にあったん? 俺のイメージでは1970年くらいで終わったもんやと思ってたんやけど」

「一応あったよ、まあ、盛り上がってはなかったけどな。クラスで集まったりして喋ってたんや。まだ大学にヘルメット被ったやつもおったで。俺は被らんかったけど。大学には毎日行ってたけど、授業受けんとそういうことばっかりしてた。それで大学7回生になって、いよいよ就職せなあかんことになって大学での活動は終わった」

「え?」

 僕は思わず声を出した。違和感を感じた。

「なんや」

「いや、就活ってなんなん?」と僕は言った。

「就活は就活やんか。働かなあかんやろ」

「いや、そうやけど」僕はいまいち納得できずに言った。「そういう思想的な運動は就活で終わってええもんなん?」

「まあ、働かなあかんしな」

「いやでも、大学とかと関係ないもんなんじゃないん、そういう活動は」

「そやし、活動は今もしてるやんか。こうして」

 父は最後まで穏やかな口調で言った。そう言われると、僕は(少なくとも表面上は)納得するしかなかった。幼い頃から父が休日の度に「集会」やデモに出かけていたのを覚えているし、今でもよくそういう活動をしている。僕が小さい頃から現在まで、父の言う『思想的な活動』が続いているというのは間違いない。でも、やはり腑に落ちないものがあった。就職しなければいけないから、大学での活動をやめる。社会で生きていくために平日は普通に働き、集会に行くのは休日だけになる。それが筋の通った考え方なのかどうか、僕には判断できなかった。それでも僕は「確かにそうか」と言った。それ以外に言える言葉は思いつかなかった。父は続けた。

「とにかく、それが俺が大学に7年もおった理由や。平和運動なんかをする中で、俺は天皇なんかおらん方がええと思ってる。第二次世界大戦も天皇の名のもとにやったわけや。戦争を引き起こした原因が残っているのはおかしい」

 父は穏やかな口調ながらはっきりとそう言った。僕は世界史の授業の記憶を遡り、天皇と戦争の関係について考えようとしたがよく思い出せなかった。

「そもそも自由平等の考え方とも合わへん。だからお前の、俺が天皇制に反対してるって見方は正しい。
 でもな、おじいちゃんが自分を天皇やと思ってたことが、俺が天皇制に反対する原因になってるかは分からん。ある意味では俺とおじいちゃんは同じ考え方やからな」

「同じ考え方?」

「ああ、俺もおじいちゃんも『今の天皇に反対してる』ていう部分では一致してる。でも、その理由が、俺は天皇制自体がおかしいと思ってるのに対して、おじいちゃんは自分こそが正統な天皇やって言うわけや。おじいちゃんは俺が否定してる天皇制を心の拠り所にしてた。天皇っていうシステムに強烈な信仰を持っててん。そういう意味では完璧に対立してるんや。
 でも正直、俺が天皇制を否定してるんは、おじいちゃんへの反抗が原因じゃないと思う。むしろ逆で、最初にあったのは戦争があかんという考え方やと思うわ。おじいちゃんはそもそも、わざわざ反抗するほど筋の通った考え方をする人じゃなかったからな。どちらかというと、戦争があかんという考え方があって、天皇と戦争がもともと俺の中で結びついてて、おじいちゃんが自分こそが天皇やと言うことで溝は深まったってことやな。まあ順番はどうでもええか。とにかくそんな感じや」

 聞きながら、僕は黙って頭の中を整理していた。これをどうすれば5分の動画になるだろうか。

「わけわからんこと言うし、働かへんから結婚するまではじいさんは鬱陶しくてしゃあなかったんや。でもお姉ちゃん(注:僕の姉、長女)が生まれてから溺愛し始めてな。それからやな、ちょっとずつ関係が普通に戻っていったのは。お前らにとっては一応、良いおじいちゃんではあったやろ?」

「そうやな」

 どう考えても5分にまとまることはなさそうだった。


 車は道幅の狭い住宅街に入り、庭付きの古い一軒家の前に止まった。父は一度車を降り、門を厳重に固めているロープを解いた。現在空き家となっている父の実家の門は普段閉ざされている。

 狭い駐車場に車を停めて、家に入る準備をする。やっと今回のドキュメンタリーのメインイベント『看板探し』が始まる。

 撮影者として同行している母親が携帯のカメラで僕と父の姿を映している。

「じゃあ探そうか」

 父はそう言って玄関の引き戸を開いた。線香と埃の混じり合った懐かしい匂いが漏れてきた。木の色が美しい家の中は時間が止まっていたみたいだった。


 僕たちが探しているのは祖父が書いた『看板』である。

 かつて父の実家の前には小さな倉庫と畑があり、その前に『看板』が立てられていた。それは祖父が書いたもので、細かい字でびっしりと文章が書かれていた。僕はそこに、自分が正当な天皇の子孫であるという祖父の誇大妄想が生み出した「神話」が書かれていると予想していた。

 父はまず、一階の仏壇の周りを探っていた。

「しかし、あの『看板』のことよう覚えてたな」

 父は仏壇と壁との隙間を覗きながらそう言った。

「まあ、今考えると変なもんやったからな」と僕は返した。探すのを手伝いたいのだが、僕にはどこにあるのか検討もつかなかった。父はまた尋ねた。

「正直言って、あれがそんなに記憶の中に残ってると思ってなかった。なんで今更思い出したんや」

 僕は思い出した理由に心当たりはあるのだが、それを言いたくはなかった。

「生まれた時からあったから違和感なんかなかったけど、大人になって冷静になって振り返るとな、変なもんやったから調べたくなったんや。他の家にはないやんか」と僕は言った。

「なんで今思い出したんや」と父はまた言った。どうしても、今思い出した理由を知りたいみたいだった。僕は、迷いながら話し始めた。父のことを尋ねる以上、僕もそれ相応の覚悟を決めなきゃいけない。

「そやな、たいしたことじゃないけど、去年の4月からネットでエッセイみたいなもんを書いててな、その中で、昔の記憶を探ることが増えたんや。なんか書けることがないかと思ってな。それで考えてたら、看板が変やったと思い出した。でも題材としては面白いんやけど、どう変やったんかいまいち分からんし、それでドキュメンタリー撮るんやったらそれについて調べようと思ったんや」

 僕は自分がネット上でエッセイを書いていることが恥ずかしくて、父に返答する隙を与えず一息に言った。父はその説明に対して一応納得したようで「そうか」とだけ言った。

 父の家は築50年ほどの一軒家で、いかにも古い京都の家という感じがする。ほとんどの部屋が座敷であり、壁もざらざらした和風のやつだ。フローリングになっているのはキッチンと『応接間』だけである。僕はこの家以外で『応接間』を目にしたことはない。

 『看板』探しは予想以上にというか、予想通り難航した。考えてみれば、『看板』がこの家に残っている確証なんてないのだ。父たち家族にとって祖父が妄想によって書いた『看板』はいい思い出ではないだろう。それを祖父の死後も保管しておく必要はまるでない。

「それじゃ二階行こか」

 父は、そう言って階段を上がり始めた。僕は立ち上がって父について階段を上がりながら「2階が一応本命なんやんな」と言った。

「そやな」父は言った。「2階がおじいちゃんの部屋やったからな」


 2階は雨戸が閉じられていて、部屋の中は昼間なのに真っ暗だった。電気をつけると8畳ほどの部屋の半分を段ボール、もう半分をガラクタが埋めていた。この中から、特定の紙(段ボール? 『看板』の素材は定かではないが)を見つけるのはかなり難しいと思った。

 しかし父は意外に手際良く捜索を進め、「あるとしたらこの中やな」と小さな棚を指差した。そこには本や、洗剤の箱や、その他諸々としか言いようのないものが押し込まれていた。

 父は「こんなん古いけどいいもんなんやけどな」などと言いながら棚の下の引き出しを開いた。中から小さな缶のようなものを取り出し「あ、これや」と言った。僕が覗き込むと、筆の字が書かれた茶色っぽい紙の切れ端が見えた。

「これがあれやな、襖の下張りや」

「これが?」

 それは手に取ってみると意外に軽く、薄い素材であることがわかった。気をつけなければ崩れてしまいそうなほど紙はくたびれていた。字は筆で書かれていて、崩されていてほとんど読めない。書かれた時代は少なくとも昭和とかではないだろう。これが父の家の実家に襖から出てきたら、何かすごいものだと勘違いすることはそれほど不自然ではないと思った。父は言った。

「こういうのが襖の中に入ってたんや。これはなんや、数字と名前が書かれてるから、年貢とかかもしれへんな。まあ、こういう中に豊臣秀吉とか松尾芭蕉のなんかとかがあったんかも知れへん」

「で、おじいちゃんがそれを見つけて、うちの家が天皇の子孫やと考えたと」

「そういうことや」

 棚の下から引き出された襖の下張りは確かに奇妙というか、不思議な存在感があった。しかしそれは単に古いものが生み出す存在感であって、それ自体が何かを語っているようには、例えば現在の天皇が実は正統な天皇ではないとか、そういうことを語っているようには見えなかった。これを見てそんなことを想像した祖父のことを思うとすごく切ないというか、ひどい言い方をすれば、とても可哀想な気がした。こんなもののために家の襖を破ったおじいちゃんがとても可哀想だった。こんなものに頼らな生きられなかったおじいちゃんが可哀想だった。

 襖の下張りが見つかったあと残る『看板』のために、休憩を挟みながら30分くらい探した。もう『看板』自体を発見するのはどうでもいい気もしていたけど、偉そうな言い方をするとやっぱり見つけ出してあげたい気がした。きっと今僕が見つけてあげなければ、おじいちゃんが書いた『看板』は二度と誰も探そうとはしない。

 父もあれやこれやと思い出話をしながら探していた。父にとっておじいちゃんは難しい関係にある。それでも父が探し続けたのは僕のドキュメンタリーのためか、それとも父も僕と同じようなことを考えていたのか、そのへんは分からない。

 結局『看板』は出てきた。いろんな場所を探したけれど、結局襖の下張りがあった棚にあった。見覚えのある汚い字が書かれた紙が段ボール箱に入っていた。土も少しついていた。懐かしいというより、よく分からない気持ちになった。こんなもんなんで取ってるんやと思うと笑えた。

 僕はダンボール箱の中からかつて『看板』だった紙を取り出して解読作業に入った。字は真っ赤なマジックで書かれていて、内容を読む前から凄みを感じた。おじいちゃんがそんな演出をしていたとは思えないけど。字はところどころ汚すぎて読めなかったり、斜線で訂正されていたりして簡単に読み進めることはできなかった。

「えっと、『戦時中から、アメリカは…フロンガスを使っていて、…なんやこれ、日本はアンモニアを…』あかん分からん。お父さん読める?」

「うーん。なんやこれ」

 床に這いつくばって読み進める僕の隣で父も紙を覗き込んだ。書かれている内容に違和感を感じていた。フロンガス? 天皇は? 

 僕はつまりながら読み進めた。

「『日本はアンモニアを…冷やすには使っていた。地球温暖化とは何か、…ボケ京都人に言う…』…あかん、読まれへん」

 僕は顔を上げて言った。

「でもなんか、天皇の話じゃないんやな」

「そうやな」父は言った。「でも、そやで、そういう物理学というか、物理学にめちゃくちゃ関心あったらしいわ。勉強もできたそうやしな」

 僕は自分の高校時代の得意教科が数学・物理であったことを思った。他の看板も読み進めた。どれも最初に読んだ『看板』と内容的に大きな違いはなかった。

「期待はずれというか、荒唐無稽な神話が描かれてるわけじゃないんか」と僕が言うと、父は思い出すように言った。

「ああ、確かに国連とか、宇宙とか、温暖化とか、そういうことをよう喋ってた気がするわ。だから多分、新聞とかテレビで新しい説が紹介される度に、持論を看板に書いて皆に見せてたんや」

「頭はいい人やったん?」

「勉強はできたらしいで。中学校までしか出てないけどな。小さい頃は詩とか読んでくれたわ。それ見て親戚は、なんであんなええお父さん嫌うんやって言ってたけど、まあ俺から見たら違うかったからな」

「頭ええ人やったんか」僕は呟いた。「そういう家系なんかもな。勉強はできるけど、それをうまく使いこなされへん」

「そうかも知れへんな。おじいちゃんも、お前も」

「まあ、それはお父さんもやけど」

 僕と父は笑った。父と祖父の関係が悪かったという見方ばかりをしたくはないけど、父と僕の関係が滑らかで良かったと思った。

「もうええか」

 流石に疲れたのか、僕と父の様子を黙って撮影していた母が声をかけた。僕は「ええで」と言った。

「あとは帰るだけやな」

 近所の王将で昼ごはんを食べ、『看板』と下張りのコピーを録った。帰りは僕が運転する。狭い駐車場から車を出す。宇治の家の門を閉じて、ロープで固める。次にこの家に来るのは誰なのだろう。

「じゃあかえろか」

 宇治から実家のある大阪に帰る。後部座席からフロントガラスを写すカメラを回し、車を発信させる。

 ひと昔前の日本家屋と綺麗な新築の入り混じった住宅街を抜けながら、おじいちゃんとお父さんの関係について考えていた。おじいちゃんの誇大妄想は、父の、いわゆる『思想的な活動』に繋がってる気がする。僕にはそんな2人がとても可哀想に見える。誇大妄想なんてもちろん無駄だし、父が祖父に反抗して関わった『活動』も無駄で、虚しいものに見える。そして父はそれにかなりの時間を使ってきた。自分が天皇の子孫という妄想に頼らなければ生きられなかったおじいちゃんも、それに反抗して『活動』をする父も、とても可哀想に見える。

 僕はそんなものには関わりたくない。天皇も、体制も、世界平和もどうでも良い。自分が幸せになれれば良い。寂しい言い方になるけど、自分以外の幸せのことなんか考えたくない。

 自分がとても残酷な人間なんじゃないかと思った。いつの間にか車は宇治の穏やかな景色を貫くバイパスの下を走っていた。

(続く)

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