不安を薄めるために夜の空気を吸いこみにいく
久しぶりにとっ散らかった文章を書きたいなと思って、暗くなってから外へ走りに出かけた。
そして、走り終えて、この文章を書いている。
本当は家に帰ってきてすぐに書こうと思っていたのだけれど、あまりにも手が悴みすぎてキーボードが打てなかったので、シャワーで体を温めてから、あらためてPCの前に座る。
そう、外に出たら寒かったのだ。
それも、圧倒的に風が強かった。
どれぐらい強かったかというと、歩くか走るかどっちにしようかなと悩みながら外に出て、あまりの寒さに諦めて走ることにしたくらい。
だいたい歩くか走るかの二択だと諦めて歩くパターンが多いのだろうけど、今回は諦めたうえで走ることしかできなかった。あの強風で散歩などしようもんなら、凍えて道端で力尽きていただろう。
ただ、どれだけ寒かろうが風が強かろうが、外に出かけようとは思っていたので、諦めて家に戻ることはしなかった。諦めたら試合終了だから。
そうして心のなかの安西先生を従えて、いざ走る。
個人的に散歩をするのも、走りにいくのも夜が好き。街中が心なしか静かだし、誰もかれも周りに気を配ってない感じがして、自分も自身のことに集中することができる。
どこを目指すのではなく、ひたすら気の向くほうに走った。
自宅をスタート地点にして、自分だけが記憶している心の地図を広げていくつもりで、方向を決めずに夜を駆けていく。
それにしても寒かった。
というか風が強すぎた。
走りにいくときは外の気温でどうするか決めている節があったけれど、どう考えても風が強いかどうかで判断するべきだった。ランナーの自覚はまだまだ足りない。
それからというものの、息が切れるくらい走り続けても、本当に自分が恒温動物なのかを疑うくらいには体温が上がらなかった。ずっと低いところをキープしていた。
息が切れるって言葉の語源はよく知らないけれど、息がビリビリに引き裂かれるくらい切れていたのに。腹いせに今、語源を定義してやりたいくらいだった。
そうやって、切れている息とは不釣り合いなくらい温まらない体をなんとか振り絞って走っていると、途中、公園でタオルを使ってピッチングの練習をしている男性がいた。
今のご時世では、公園でボールを使って遊ぶことができないからか、ボールを投げる動作でひたすらにタオルを振りぬく。
彼が何者なのかは知らないけれど、夜の公園でボールが使えないのにもかかわらず、タオルを振りぬく動作を繰りかえす姿は胸に響くものがあった。
戦いにいくかも定かではない彼の武運を祈りながら、再び走り出す。
それにしても、ずっと家のなかで考えこんでも何も思い浮かばなかったのに、走っている間は言葉が次々と浮かんできた。固定されている目線を動かすことの大切さを身にしみて感じる。
それに、夜、歩いたり走ったりしていると、悩みや葛藤が少しづつ薄れていく気がする。
夜の空気に触れると、今まで不安や口に出せない弱音が漂っていた心の底に、冷たい空気が流れこんでいく。
決して完全に無くなることはないのだけれど、しだいに悩みごとは薄まっていく。
それはきっと、別の考えごとや変化する景色に意識をもってかれることで、ネガティブな感情がすみに追いやられるから。不安が占める割合が狭まっていくから。
個人的に、素直に弱音を吐き出せることは強さだと思っている。
自分があまり外に出せないタイプなので、よりその強さを実感するし、羨ましくも思う。
でも、こうやって夜の空気で薄めてみたり、とっ散らかっても言葉にしてみたり、いろんな方法で弱音を吐きだすことができている。それでいいのだと思う。
と、そんなこんなで、そろそろ書くこともなくなってきた。
まだブザービートはなっていないし、ふくらはぎの張りは明日になったら筋肉痛へと変わるのだろうけれど、今は安西先生の声を振りきって試合終了にさせてください。
今日はアマゾンプライムで『市子』を観る。楽しみ。
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