見出し画像

胃カメラを飲む

おのれ今日という今日ははっきり申し上げなければならん。

医療行為というものは人体にダメージを与えるという意味においては拷問と同じであり、それによって得られる益の部分がダメージより大きいから行為として成立し、高額な報酬を得られるのである。
視点を変えるならば、その目的が病疾の改善なのかもしくはアメリカ軍の基地のありかを聞き出すかの違いがあるだけで、やっていることは、つまり肉体的かつ精神的に痛めつけているという点においては拷問も医療も本質的に同じであると言える。
歴史を紐解けばクラウゼヴィッツも「医療とは拷問の形態を取らない拷問の延長である」と言っていたような気もするが、勘違いかもしれない。

さて特定健診という制度があって、例によって受診券が毎年やってくるのだが、今回は予約を失念していてかなり遅いタイミングになってしまったので、受診できる病院が限られてしまった。
そんなわけで普段は春江病院でお世話になっているところ今回初めて三国病院で特定健診を受けたのだが、病院が変わればいろいろ変わるもんだということを今回文字通り痛感した次第である。

がん検診の中でも胃カメラという拷問がある。
これはまことに非人道的なもので、生きた人体の中に管を通して内臓の内側から写真を撮影するという大変残虐かつ肌に粟を生ぜしめる悪魔の所業と言える。
国連の人権委員会やハーグ陸戦協定でなぜこれが規制の対象にならないかというと、その悲惨さに倍するメリットがあるからに違いないが、数千年人間の文明が栄えてきた中で胃カメラによる苦痛に耐えなければならなかった期間はほんの数十年であることを考えると、昔の人が羨ましくもなろうというものだ。

その胃カメラの部屋に案内された。
どういう話のはずみか覚えていないが、私がいらんことを言ったのかどうか、鎮静剤の注射なしでやるということになった。
喉の奥に麻酔薬を塗りたくられ、拷問台に横になったところで胃カメラという拷問具が登場した。
どうも私がこれまで体験したものよりもかなり太いようで、メガネを外していたのでよく見えなかったせいもあるが、なんだか太い管に並行して何か細い管でもついているのか、これを結束しているインシュロックタイのようなものが20ミリ間隔くらいで縛着してあるように見えた。
まさか本当にそうであるはずはなく多分私の見間違いなんだろうと思うが、裸眼でぼやけて見えるそれに一定間隔で白い帯のようなものが見えたことは間違いない。
なるほど疑心暗鬼とはこういう現象を指すのだろう、恐怖心が高まるとありもしないものが見えるのかもしれない。
そんなものをこれから胃袋に突っ込まれるのかと思うとまだ逆さ吊りにされる方がマシなように思えてしまう。

おもむろに管が突っ込まれるのだが、粘膜に当たる部分が圧迫されるのがたまらなく痛い。
痛いと人体は危険と判断して、自動的にデフコンが上がり全身が緊張状態になるので余計管が入らなくなり、苦痛はさらに倍増する。
これは副交感神経の作用によって起きることなので、本人の意思がどうであれ制御することは難しいのだが、おのれ「こんなものが痛いのか?」という応対をされるのが実に耐え難い。
痛いものは痛いのであって、ありのままに受け入れることが写実主義であり近代科学だ、痛いのに痛くないと誤魔化すことは観念論であって中世の東洋的停滞が起きたのはまさにこれが原因である、日本の明治維新と中国の洋務運動の結果の違いはこのことの違いによるものなのだ、と医者の先生に抗議したかったのだが、喉に異物が突っ込まれている状態ではろくにものを言うことができず、仕方がないので目でそれを語ったのだが遺憾ながら伝わった気配はなかったようだ。

なんとか峠は越えたようでいよいよ先端が胃袋の中に達する。
どうも管の先端から絶えず空気が送られているようで、胃袋から常に空気が逆流してくるのが気持ち悪くて仕方ない。
また内臓は痛点がないというが胃はそうではないらしく、なるほど「胃が痛い」という表現があるように胃袋は外的刺激に対して痛みを感じる。
検査中常に管の先で胃袋の壁を内側から圧迫しているような違和感、と言うよりはっきり痛覚と言うべきなのだが、まことに耐えがたい。
それでものたうち回ったりしたら作業の障碍になるであろうから努めて耐え難きを耐え、動かないように努力をしていたのだけれど、その分顔には相当の苦悶の表情が出ていたのだろう、看護婦さんが「ハイハイちから抜いてー」などと赤子をあやすような言動をするのがさらに耐えがたい。
なんで病院のひとは言動が偉そうだったり幼児をあやすような調子だったり人をバカにしたような口調になるのだろう、おのれハイは一回でいい、ハイハイは赤ちゃんがやる匍匐前進だと文句を言いたくもなるが、この状態で発声することはできず、やはり目で語るのだがやっぱり伝わらないのがもどかしい。

考えてもみてもらいたい、死体の病理解剖ならいざ知らず、私はまだ生きている人体、すなわち生体、生体解剖の生体だ。
なんの罪もない人間が生きたまま胃袋に達するほどの異物を押し込まれ、かつ空気を送り込まれ、あろうことか胃袋を内側から圧迫されるという迫害に耐えているのである。
中国4千年の歴史はそのまま4千年の拷問の歴史ともいえ、とてもここで詳しく描写できないようなことをやってきたのだが、その中国人でさえ生きた人間の胃袋に何かを突っ込むというようなことはやらなかったに違いない。
そのくらいの苦痛を与えているということは十分に自覚してもらいたいと強く思う。
多分時代があと300年ほど先に進むと、21世紀の医療というものはひどく人間性を無視した残虐なものであったと歴史家は書くであろうし、その時代の子供にとってはアステカ文明でやっていた生きたまま頭をカチ割る脳外科手術も胃カメラも同じくらい不気味なものに映るに違いない。

その状態で2時間くらいを耐え(但し脳内時間、実際には15分くらいか?)、1時間ほどかけて管を人体から引き抜き(但し脳内時間、実際には1分くらいか?)、拷問の時間はようやく終わった。
どうやら私は相当手がかかる客であったようで、ムシ歯の治療で泣きじゃくっていた子供を褒めるような応対を受けたことがまことに腹立たしい。
とにかく痛いものは痛いし苦しいものは苦しいのだ、ガリレオを見ろ、それでも地球は回ると言ったじゃないか、その上でこっちはとっとと検査が終わるように必死に耐えているのだ。
「ハイハイ大丈夫ですよーちから抜いてねー」なんてガキ相手に言うようなことを言ってる暇があったらとっとと済ませてもらいたいもんだ。
カメラを抜いたら大暴れしてやるぞという復讐心で検査に耐えていたのだが、目の殺気がうまく伝わらなかったのかもしれない。

そうしてえらい目にあった後に、どうやら私はピロリ菌というのを胃袋の中で養っているらしいことが分かった。
なんだかかわいらしい名前だが、もらったパンフレットの表紙に描いてある絵もなんだかトボけていて力が抜ける。
全然深刻な状態ではないらしいのだが、こいつがいるとなんだか良くはないらしく、除菌した方がいいと勧められた。
こいつがいたらどんな目に遭うのかの説明がなかったのは、対して脅威ではないからか、もしくは面倒だったのかもしれない。
通院がちょっと必要らしいので近所の春江病院にかかりますというと、ああそうかといってその場は無罪放免ということになった。

とにかく久しぶりにひどい目にあった。
この落とし前をつけるためにも、ピロリ菌というやつはぜひとも根絶やしにしなければならん。
ピロリ菌にはなんの罪もないのだが、復讐の連鎖というやつは多分こういうことなんだろうなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?