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娘に怒鳴ってしまった自分を少し許せたきっかけ

育児をすると見たこともない自分の一面が顔を出す、というのは周囲の経験者から何度も聞いていた。よもやあなたは声を荒げることすらありますまい…と思うほど温和で静かな友人が「いやあ、毎日のように叫んでる」と教えてくれたときは、育児とはそんなにも人の正気を失わせるのか、と震えたのを覚えている。

ただ幸いなことに、娘が生まれて数年、まだ私は娘に声を荒げたことはなかった。これは運が良かっただけで、何かが少し違えば自分も容易にそうするであろうことはわかっていた。

そしてそのときはついに訪れた。
娘をダンス教室へ連れて行く車内で。

娘はダンスが大好きで、レッスン後はいつも満面の笑みで教室から出てくる。習った振り付けを披露してくれ、家でも毎日のように好き勝手踊っている。だから教室に行きさえすれば楽しむとわかっているのだが、連れて行くまでが本当に大変だ。

まず学校から帰った娘は疲れ切っている。お昼寝があるとはいえ、めいいっぱい遊んで疲れないわけがない。帰宅するとたちまち娘のスイッチはオフになる。そんな時にレオタードへ着替えさせ、ダンス教室へ誘うのは容易ではない。「いかない!」と泣き叫び、逃げ回る。時間に余裕があればやりようもあるのだが、帰宅から出発までは30分しかないのだ。

「じゃあもうダンス教室はやめる?!」なんて、絶対にやめてほしくないくせに心にもないことを言ってしまう。疲れてるのに母親からこんなことを言われて、娘はますます機嫌が悪くなる。

なんとかなだめすかして着替えさせ、車に乗せて、これでもう後は行くだけ、と一息ついて運転し始めたところで、娘が叫んだ。「いかない!!!かえる!!」

あああ、と全身の力が抜ける。
「でもさ…」と説得を試みる私の声を遮って娘がまた叫ぶ。「だんすいかないいいい!!!!!」狭い車内に金切り声が轟く。

家で同じ状況になったときは、一旦落ち着くために他の部屋へ逃げられた。だけど車には逃げ場がないばかりか、運転に集中しなければならない。

「いーーかーーなーーーーーーい!!!」
落ち着かねば、と思う私に娘の泣き声が追い打ちをかけてくる。

余裕がなくなった私は、ついに娘に怒鳴ってしまった。
「いい加減にして!!!」

その言葉がいい加減にして、だったのか何だったのかもはや定かではない。とにかく人生で一番大きい声で何かを叫んだ。一番愛しい相手に。怒鳴られた娘は唖然としていた。

ああ、遂にやってしまった…。娘は悪くないのに。

互いに落ち着いたタイミングで、娘に謝った。「大きな声を出してしまってごめんね。どう思った?」と聞くと「かなしかった」と言われ、そうだよね、と胸が締め付けられた。

二度と同じことを繰り返さぬよう、この一件から学校後に帰宅せずダンス教室へ向かうようにした。そうするとレッスンの30分以上前に着いてしまうため色々と工夫が必要なのだが、互いに叫び合うよりは良い。

この出来事のあとはしばらく自責の念に苛まれた。もっと優しい母の元に生まれたら良かっただろうに、と落ち込んだ。

だけどおばあちゃんズとの聖書レッスンのおかげで、そんな自分を少し許せるようになった。


何回目のレッスンだったか、ついに有名な一節が出てきた。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」である。
"If anyone slaps you on the right cheek, let him slap your left cheek too."

そんな。売られた喧嘩は躊躇なく買う私とは真逆の態度ではないか。

でも知っているのだ。怒りを向けられたときこそ愛で返すべきだと。怒りに怒りで応対しても、そこには何も残らないと。言うは易く行うは難し。人生でこれが実践できたことが何度あるだろうか。事実、数日前に叫ぶ娘に叫び返してしまい、自身の度量の狭さを嘆いていたところだ。

難しい顔をする私に、JとDは言う。
「できないよね。私も全然できないのよ。でもそれでいいの。私たちは完璧ではないから。」
「神もそれは承知の上で、私たちを愛してくれている。できなくても、やろうと思い続けることが大事なの。」

そうなの?

レッスンを重ねる中で、彼女たちは「神だけが唯一完璧な存在であり、私たち人間は完璧ではない」ということに繰り返し言及してきた。

別のキリスト教徒の友人も、困難な状況や失敗の話になると「私たちは完璧じゃないからね」とよく口にする。あの言葉がキリスト教から来ていたとは。

「神だけが唯一完璧な存在であり、私たち人間は完璧ではない」とは、神の教えというよりはキリスト教から見た世界の「大前提」なのだと思う。

「人間は完璧ではない」にだけ言えば、キリスト教に限らず人類周知の事実だろう。

だけどそれを知っているはずの私たちはなぜ、他人に劣等感を抱き、自らの失敗を憂い、できることよりもできないことに目を向けてしまうのか。
それは「人間は完璧でない」ことを知ってはいても、信じてはいないからではないだろうか。

私たちはあたかも、自分というパズルに欠けたピースは埋めることができるかのように生きている。自分にないその一片を渇望する。でも人間即ち自分が完璧になることはない、と確信したとき、その一片の不在こそが自分だと認められるのだ。

キリスト教に言わせれば、神こそが唯一全てのピースが揃った存在だ。天は人の上に人を造らずではないが、神を唯一の完璧な存在として据えることで、私たち人間は皆平等に、「欠けた」存在になる。自分はもちろんのこと、完璧に思えるあの人も、必ずどこかのピースが欠けているということだ。

これは「自分たちはどうせ欠けているのだから仕方がない」と現実を諦めるための免罪符ではない。自分にできないことがあるのは当たり前で、そんな自分を責めず、受け入れていこうとする姿勢だ。

生まれたての赤ちゃんが喋れないからと言って、誰も赤ちゃんを責めない。もちろん赤ちゃんも自分を情けなく思ったりしない。できないのが当たり前だからだ。
大人になるにつれてできないことは細分化され分かりづらくなるけれど、一人ひとりがそれぞれの形の「できない」を抱えている。でも自分にできないことがある事実はそれ以上でもそれ以下でもない。だからそのことを嘆き悲しみ翻弄される必要はないのだ。

言葉にするとあまりにシンプルで拍子抜けてしてしまう。でも私はキリスト教が説くこのシンプルな「大前提」には救われる。キリスト教徒でなくても。

私に叫ばれて「かなしかった」と言った娘。本当に本当に申し訳なくて、悲しい顔をしている娘を見るのが辛かった。
なんであんなことをしてしまったんだろう、と自分を責めた。もっとうまくできたはずなのに、と情けなくなった。

でもきっと、もっとうまくできないのだ。何億回やり直しても、きっと私はあそこで叫び返してしまうんだと思う。万が一叫ばなかった世界線があるとして、また別の場面で私は何かを間違えるだろう。

だから、どこにもいない「もっとできたはずの自分」を探すのはやめて、完璧でない自分を認める方がよっぽど健全なのだ。

娘を悲しませてしまったけれど、その後にしっかり娘と話し、謝れたのは良かったことだと思っている。この経験はどこかできっと活きるはず。そう思うと自分を少し許せた。

人間はみんな完璧じゃないから、きっとまた私は間違える。でもきっと大切なのは「間違えないこと」よりも「間違った後どうするのか」なのだと思う。



キリスト教徒のおばあちゃんズ、JとDを通した私の聖書との旅の記録は下記マガジンにまとめてるので、他の記事もぜひ。


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