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フォローは数字じゃねえよ

音楽を聴きながら書いたので
流しながらお読み頂ければ幸いです。

割と奇麗ごとを書くならば
フォロー数やスキの数を
単なる数字というのは好きじゃない

読んでないスキもあるだろう
けど、わざわざ押さなくていいことだ
だけど押してくれたことで
細やかな繋がりが生まれるかもしれない

その時は流していても
どこかでたまたま書いた記事が
刺さってくれて喜んでくれたら
嬉しいなと今は思っている

まぁnote3年弱
その考えをいったりきたりしているけど
段々軸になりつつある

かと言えば1つ1つの関係性が
濃いことはもう望んでいない
深い心配一つが誤解を与えてしまい
相手に変な期待を抱かせることもある

意に添えない時
攻撃に転嫁されることもあった

相手の人格を否定してしまえば
それまでの話だけど
それだけなら芸がなくて
自分の至らなさを考え反省する

コメント欄を開けてた時には
ファンですとか言われるのが困った

嬉しいか、嬉しくないかで言えば
そりゃ嬉しいに決まっている
けど、同時に自分を戒めないといけない
そもそも俺は顕示欲の権化みたいな人間で
それだと生きづらいを自で学んだ今がある

ただの善ではなく
善悪知りて善にいきたいと願う
それだってそれが穏やかに繋がることは
経験だからさ

SNSにおいてというか人生において
俺であることと
あなたであることとは
対等な関係

例え俺がどれほど読まれていようと
例えあなたがどれほど読まれていようと
フォローを返してくれない
リライブシャツのフォローは外したし
きっと、応募した賞レースは
フォローが前提参加だけど
賞をくれないなら外す(笑)
フォローをくれたら賞が取れなくても外さない

相手が何者だろうと上も下もない

だから気をつけている言い回しがあって
「読者のみなさん」という言葉
その表現は別に間違いではないけど

司馬遼太郎でもない俺が
読者のみなさんなんて言えない

それを書くときは
「読み手」と「書き手」という書き方になる

話し上手は聞き上手という言葉があって
これを書いたから俺は素晴らしいと
自惚れていたらきっとそれまでなんだ

記事に何かを想ってくれる人がいて
そういう読んでくださる人の器量に
委ねているところは正直ある

だから読んで下さって成立する
そのことは骨身にしみている
個人的には書くより読んで頂いて
それを理解してくださる人の方が
矛盾しているけども、上だと思っている

散々3行でスキつけるとか書くけど
感銘を受ける記事は多い

たぶん、この先も
ネタがつきることはない
それは読んでいるからさ

わりとぎりぎりを狙いに行くことは好きで
これを超えたら許されないけど
ここまでならぎりぎり笑える

そんな境界線が何となく見えていて
そこを狙いに行くてへぺろ感はある。

客観性を少し崩せば笑いは生まれやすい
だけど、それには誰より基礎がいる
ルールに従えず変えなきゃと思ったとき
嫌だから従わないのではなく
誰よりも精通するから変換を起こせる
そういう考え方

よく、凄い肩書を
プロフィールに書いている人はいる

自分には大した肩書はないけども
自己紹介するならば
そこで多くは語りたくない

感じたことの連続の中に俺がいて
いつもでなくてもいい
たまに読んでくれて

こんなやついたなと
記事にスキをときどきくれたら有難い

近道はしたくないんだ
ただ今はもう、その事が最短だったと
知っているんだ。

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