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お前は誰だ?

本音で行こう。
俺は文章を書くならば金が欲しい
読ませるエッセイだと
思いあがった節は最初からある

でも、そもそも文章を書くときに
担保しているものは
読ませてやろうとか
そういう想いは殆どなく

自分が気持ちよくなりたくて書いている
誰かに諭すというよりは
そうやって生きていこう
そうやるべきだよなという感じで
自分に言い聞かせながら書いている

それにあと愚痴かな。
とはいえ、愚痴は聞いていて
楽しいものではないのは万国共通なので
記事としては書きにくい

ただ、記事に担保されているものが
何もないかというと

それはあって
それは、俺ということだよね

奇麗な美辞麗句を皆書きたがるけど
お前はどうなんだ?と尋ねられたとき
説得力は果たしてあるのか?

だったら黒い部分も
きちんと表現しつつ
それでも前向きにしめくくればいい

この黒い部分がない記事というのは
どうも生きている感じがしないというか
生気がないというか

小説を書く人たちがいる
それをnoteで発表するとき
見せ方は必須だよね

新着記事から上がるのはSNSの常で
それに連続ものな場合
回を増すごとに読まれないイイネが
増えていく。

目次をつけるなり
前後のリンクをはるなり
外部ページをつくるなり
工夫は必要なわけでしょう

それをしないで
ただ、書いていく時に
その人の書く小説に人の心の機微が
上手に表現できている気がしないんだよ

一事が万事というのだろうか
小説家になりたいのなら
人よりそういう細やかな感性は
俺は必要だと思うんだよ

それって文章力が担保ではない
その人の人柄が担保になる

よく見かける
noteを書くことで
文章力をあげたいということ

あげるべきは文章力ではなく
気持を上向かせていく
自らのハート力だろうか

すると自ずと文章力なんかは上がる気がする
子供たちがふいに大人を感動させる瞬間はある

それって語彙力がすごいから
表現力がすごいからだっけ?

エッセイを書くなら
きちんと自分の書いた記事に
自分自身が前向きになれているか
感動しているか
時に涙を流して書いているか

写真だってそうだよ
1枚掲載するのに
ただ、その場でスマホをかしゃり

その場の景色がすばらしくて
誰かを想いその一枚をきるとき
心は現れる

インスタみているとわかるのだけど
なんとなく景色がきれいだから
単に撮った写真と

思いのつまった写真とは明らかに違う
SNSは飛躍的に参加者が増えて
全ての人がクリエイター時代には
きちんとそこには担保されるものが必要で

多分だけど
おおかれすくなかれ
生活のウエイトをかなりしめるようになる

既になっているか

収益を得るとか得ないとか
そういうのは置いておいても

自分の心をどうにかして
幸せに生きていくしかない時に

自らを担保できていないと
取り残されていくような
そんな気がしているんだよ

繋がって交流して素敵な写真を見せ合って
いいですね。っていいねをしあっても
多分、足りなくなってくるのではないかな

進化しつづけるAIに対して
人の心のありようもまた進化する
そんな気がしているんだ。

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