奉仕の気持ちになることなんです
大きな喪失と直面して、自分の気持ちをどう処理して良いか何も分からずにいた時に、中原中也の『春日狂想』という詩に出会った。
「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。」から始まる詩。 それでもなお生き続けなければいけないのならば、「奉仕の気持に、なることなんです。」
何もかもが憂鬱で現実が苦しい喪失の中で、他人のために何かをするという考え方はとても良い生き方のように思えた。
「奉仕の気持に、なることなんです。」
中也が詩の中で繰り返し言っているように、自分の頭の中で何度もこの言葉を呟いた。
「愛するものは、死んだのですから、たしかにそれは、死んだのですから」
「もはやどうにも、ならぬのですから、そのもののために、そのもののために」
「奉仕の気持に、ならなけあならない。奉仕の気持に、ならなけあならない。」
喪失感に飲み込まれて、何をするにも憂鬱な時、中也の言葉がわたしの苦しみに、生き方に、共感して肯定してくれているように思えた。
詩の第1章の部分が、ここまでの内容になっていて、喪失から2、3年程はそこまでの内容しか意識していなかった。
2章は、奉仕の気持ちになりはなったが、格別のことも出来ない、という文から始まる。
何となく丁寧に生きてみたり、良いことをしてみたり、楽しげに生きてみるけど、何だかから回っているような様子がとても悲しい。
「まことに、人生、花嫁音寮。」
これが中也の皮肉だと気が付いたのは、随分あとになってからだった。
結局優しい気持ちになって、他人のために何かをしようとしても、心の中の喪失はいつまでも消えることはなく、気休めでしかない。
それでも「奉仕の気持ちになること」は、現実の悲しみと上手く折り合いを付けながら生きていくために必要なことだと思う。
最後の章は「ではみなさん、喜び過ぎず悲しみ過ぎず、テムポ正しく、握手をしませう。」「つまり、我等に欠けてるものは、実直なんぞと、心得まして。」と続く。
詩の前半部分は、グリーフケア(遺族の心の状態を理解して寄り添うことで回復のサポートをする取り組み)と呼ばれる物のように感じられ、喪失に直面してすぐにこの詩に出会えたことにとても感謝している。
数年読み返し続けていくと、詩の内容と同じように自分の考え方も変化していった。中也もきっと同じ気持ちだったのではないだろうか。
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、奉仕の気持ちになりながら生きていきましょう。
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