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お子の誕生とあれこれ

先日、我が家にお子(第一子)が誕生した。

コロナ禍で出産の立会いは禁止。産まれてからの面会時間は入院期間5日間のうちの30分のみ。別れが辛すぎてむしろ会いたくないと思えるほどの時間だが、産まれたその日に会いに行った。お子の小さい手に僕の指をギュッと握られたときは自然と涙がこぼれた。同じように涙した父はきっと多いことだろう。握られる指先に「涙腺緩みスイッチ」があって、お子は研ぎ澄まされた感性でそのスイッチを見つけ出し、ギュッと押す。すると父の目からポロッと涙がこぼれる仕組みになっている。そんなふうに回路を組まれてるんじゃないかと思えるほど、自然と涙がこぼれた。なんだかんだで1時間ほど経っても「そろそろお時間です」的なことを言われなかったので気を遣ってくれているのかそもそも気にしていないのかよく分からないが空気を読んで妻とお子に別れを告げた。

数日後、妻とお子は退院した。
退院後、妻は実家へ里帰りする予定だったので義母父に送迎をお願いした。里帰りと言っても隣町なのでわたしも仕事帰りに寄らせてもらったり、そのまま泊まらせてもらったり、自分の家と妻の実家を行き来している。
出生から約ニ週間。寝食を共にしたのはそのうちの数回だが、お子とのふれあいは非常に楽しい。ミルクを飲ませたあと、ゲップをさせるために座ってないぐわんぐわんの頭を肩にのせたとき感触と重み。沐浴でお湯にびっくりしたお子の手を振り回す様子が、独特なタクトの振る指揮者のように見えること(本人の真剣な表情がまたおもしろい)。まだあまり見えていないであろう目で見つめられたり、腕の中ですやすや眠る姿はなんと愛おしいことか。

そんなこんなで思ったのは「もっと育児に関わりたい」という事で、案の定その前に立ちはだかるのは仕事という壁だった。この問題はお子が産まれる前から、むしろ妻のお腹に宿る前から意識していた事だがやはり自分の番がこないと本当の意味では意識しずらい。今まで寝そべりながら片肘ついてテレビを見ていた問題意識が「お、やっと気づいた?」とそのからだを起こしたようでイラッとしたが、そんなこちらの気持ちなど関係なくパーソナルスペースに入ってきて「どーする?どーする?」と問いかけてくるようだった。

夫の育休については過去の法改正や2022年(10月)から「出生時育児休業(産後パパ育休)」が施行されるなど社会的にも変わってきているようだが、現段階では勤務先の風土に強く引っ張られる傾向にあると感じる。育休を取得したわたしの友人も「うちの会社はそこらへん積極的に進めてるから」と言っていたし、風土の違いという意味ではカナダに住む妻の友人は3ヶ月間の育休を取得するらしい。「いやいや業務体制上 3ヶ月間も休むなんてむりだよ」という言葉がまず口をついて出そうだが、本心は「3ヶ月間も休んだ後にどういう顔して職場復帰すればいいのか」「復帰後立場が無くなってたらどうしよう」ということの方が強いのではないか。何十年と続く仕事と比較すればたった3ヶ月なのだが、やはりされど3ヶ月で、それらの心配も思い込みと言えばそうなのだろうが、「一家の大黒柱」「一家の稼ぎ頭」というような、確かに間違ってもないけども時代錯誤的な夫像から抜け出せない自分にもどかしさを感じたりしている。

自分の番になってあらためて思うのは、新生児にとっての母親の必然性だ。特に母乳に至ってはそのメカニズム(個人によって出る量の違いはあれど)からもわかるが、「欲する子と与える母」の関係に父である夫は介入の余地がない。もちろん授乳中にミルクを作ったりなどやれることはあるが、その完成された需要と供給を目の当たりにすると、あぁここには入る余地がないな、と悟った。そう考えるとやはり出生後の数ヶ月は母親の必然性は強く、こういうところにも夫の育児参加が消極的になる理由を垣間見た気がしたし、その消極性を別のエネルギー(仕事)に変えることでなんとか役に立とうとしている夫の姿も目に浮かんだ。結果として夫が家から離れてしまい、いわゆる「女は家、男は外」の構図が浮かび上がったようだった。

きっとこれからも育児を通して考えることが様々あるだろう。問題を前にどのような選択をするべきか。妻と相談しながら自分自身が後悔のない選択をしていきたい。

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