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花屋日記 そして回帰する僕ら

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ファッション女豹から、地元の花屋のお姉さんへ。その転職体験記を公開しています。
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#花のある生活

「花屋日記」エピローグ:あなたの名前は?

 ずっと、人に優しくできない時期があった。電車に乗り合わせた乗客も、コンビニの店員も、私にとっては「背景」でしかなかった。その一人ひとりに性格や生活があったとしても私にはまったく興味が持てなかったし、極端に言えば無差別殺人を犯すようなヤサグレた人の気持ちも、想像できなくはなかった。それは自分自身が、この都会でちゃんと「人」として扱われてこなかったからだと思う。  今のオフィスの近くにある定食屋には、やたら明るい店員さんがいる。トレイを運び間違えて 「おっと! 危うくほかのひ

「花屋日記」50. そして回帰する僕ら。

 ある日の午後、ブランドの新作展示会に向かうため代官山Tサイトを通り抜けると、青山にある花屋「ル・ベスベ」のポップアップショップが開かれていた。つい立ち止まってしばらく花材を眺める。今すぐあのカウンターの中に入ってさくさくブーケを組める気もするし、まったく途方にくれてしまう気もした。花を2週間以上も触っていないなんて初めてのことで、なんだか他人の人生を生きているみたいだ。  東京に引っ越してくるとき、私は一連の道具を荷物の中に入れた。花鋏とフラワーナイフ、ワイヤーやフローラ

「花屋日記」43. 当たり前でない美しさを、嘘でない花を。

  店で花を組むときは「マスフラワーは3本まで」「同系色か反対色のものしか合わせない」といった、いくつものルールを厳守しなければならなかった。当然だが、店のカラーを統一させるため、スタッフの誰が作っても大差ないようにしなくてはならない。だから、いつまでたっても新たな色合わせは試作できなかったし、他店が仕入れているような花材や資材も、うちでは扱えなかった。何か新しいものを提案しても、店長に却下されてしまい、私はどこか「諦め気味」に仕事をするようになってしまった。  お客様のニ

「花屋日記」33.「愛」の単位になればいい。

「おねえさん、質問。女の子に花あげるんやったらどんなのがええの?」  ある日、ふらっと店に来られた男性にそんなことを尋ねられた。カジュアルな口調ながら、目はどこか真剣だった。適当には答えられない気がして、私は詳しくお尋ねした。 「お誕生日プレゼントですか?」 「いや、なんちゅうかな、彼女の玄関に花があったらええな、と思たんよ。あ、僕の彼女ちゃうんやけどね」 男性は慌てたように、そう付け加えられる。 
「そうですね、普段からお花を飾ったりされる方でしょうか?」
 「ないない、

「花屋日記」27. その愛は未来へ届くか。

 ある晩のことだった。30代のサラリーマンが店に立ち寄られて、ずいぶん長いあいだ花桶の前でうろうろされていた。「お伺いいたしましょうか?」とか「一本からでもお包みしますので、おっしゃってくださいね」とか声をかけてみても、とくに反応があるわけでもない。私がもう接客をあきらめて別の作業に入った頃に、その方はようやくカウンターへやってこられた。  手には3つのブーケが不器用そうに抱えられている。小さなピンクのブーケが2つと、それより少し大きめの紫のブーケが1つ。そんなにたくさんお買

「花屋日記」26. あなたに見せたい花だった。

 小さな店なので、お客様とのコミュニケーションの積み重ねからリピーターを作ることが大切なポイントだと、私は思っていた。今回はそれが裏目に出てしまったのだろう。私たちは花を売るサービス業なのであって、お客様に恋されている場合ではないのである。シノダ様は常連客だ。きちんとお付き合いはお断りしつつ、お買い物は継続してもらえる形に持っていかなければならなかった。なのに私の口からとっさに出た言葉は 「すみません、あの、そういうつもりではなかったんです…」 という、そのまんまな一言で、シ

「花屋日記」25. ここは恋愛多発地域か。

 これはどこの業種でもあることかもしれないが、実は花業界でも、仕入れ先や宅配担当の人たちとの間で頻繁に恋が生まれたりしている。 「あの宅配のお兄さんはいつも感じいいよね」 と軽い気持ちで後輩スタッフに話しかけたら 「…すみません私、実はあの人と付き合っているんです」 「えっ、いつから!?」 「先月、こっそり『お姉さんは彼氏いるんですか?』と聞かれて『いないんです』って言ったら、連絡先を渡されまして…」 なんてことが裏で起こっていたりするのだ。なんせこちらのスタッフも女性ばかり

「花屋日記」24. さらばフロントロウ。

 かつて在籍したファッション編集部では、とにかくみんなの気位が高かった。なんせファッションショーでは当然のようにフロントロウに招待され、ブランドの展示会でも貸切の時間を設けられるので、それがだんだん当たり前になってくるのである。たまにVIP扱いされず、ちょっとでも待たされたりすると 「私たちが誰か知らないのかしらね?」 と、みんなあからさまに不機嫌になった(とはいえ、待ち時間があるとなれば○ルマーニのラウンジでお茶をしたりするので、どこまでもバブリーな世界である)。私はそんな

「花屋日記」23. 静寂の中で彼女を守る者たち。

 魅力的な女性が、ときどき店に立ち寄ってくださる。スタッフの間で「あのすごくかわいいひと」で通じるくらい、みんなの記憶にのこる美貌の持ち主だ。彼女はいつもブーケではなく、単品の切り花を購入される。ご自分で花を選びたいタイプの方なので、私はいつも挨拶だけをしてカウンターにひっこむ。  それに最近気づいたのだけれど、彼女は元気がないときに花を買いに来られるのだ。たいていは仕事帰りに、そしてたまにはお昼過ぎにも。 「こんな時間にいらっしゃるなんてめずらしいですね」 と一度お尋ねした

「花屋日記」22. バラをめぐる夜の攻防戦。

 うちの店では「柳井ダイヤモンドローズ」というブランドのバラを束にして定番商品にしている。人気品種がミックスで山口県の産地から届くので、毎週買っていかれるリピーターも多い。  ある晩、ブルーの作業着を身につけた無骨そうなおじさまと、部下らしき男性3人があとに続いて店にやってきた。どうも飲み会の帰りらしい。 「バラはないか? 俺、バラが好きなんや」 とおじさまが上機嫌で言う。 「今朝届いたばかりのバラのブーケがございますよ。これは『シェドゥーブル』と言ってロゼット咲き(花弁が