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傷ついた僕らは、雨粒に包まれた窓を選ぶ。

ランダムな雨音が耳を打つ。休日の朝だというのにこの薄暗さ、陰鬱さはなんだろう。今年の梅雨は長い(気がする)。

久しぶりに届いた母からのLINEには「春馬くんがいなくなって悲しい」と書いてあった。ダンスの上手な子だなあと思っていた」という。芸能界にさして詳しくない母がこんなことを言うのは珍しい。よっぽどのことだ。

彼があんな形で突然いなくなってしまったことは、いろんな人に精神的な影響を与えていると思う。なんせ子役の頃から活躍して、あれだけ多くの作品に出演してきた人だ。みんなどこかで彼の演技を目にしたことがあるだろうし、いつも笑顔のイメージがあるから余計につらい。本当に才能あふれる俳優さんだった。


先日、私は渋谷で開催されているソール・ライター展に足を運んだ。その中で、「期待を無視する勇気があれば」というキャプションの前でふと立ち止まった。春馬くんのことが頭をよぎったのだ。

ライターの作品はどこか密やかで、ささやかで、何が起こっているかすぐには分からない。彼のパーソナルな発見や感動が、手のひらほどの印画紙に焼かれている。
もっと分かりやすくダイナミックな画面構成にすれば、彼の作品はもっと評価されたかもしれない。そしてモード誌の仕事にもっと力を入れていれば、ファッションフォトグラファーとして歴史に名を残せたかもしれない。
「彼自身がもっと成功を求めていたら…」
そんな歯痒さをどうしても感じてしまう。なんせライターはその才能にもかかわらず、80歳を超えるまでほぼ無名の写真家だったのだ。

でも後半の展示で、彼がなぜ「そっちのルート」を選ばなかったのかが判明する。ライターの父親は厳格で、優しさのない人物だったという。ライターの唯一の理解者であった美しい妹デボラは、若くして精神を病んでしまったほどだった。

優しくて真面目な人たちは、周りからのいろんな「期待」を背負い、助言に耳を傾け、それに応えようと努力する。そしてそれがエスカレートして、自分の心や体までも持っていかれてしまうことさえある。
だから、たとえどれだけ不誠実に思われても、才能を無駄にしていると言われても、自分の人生は「勇気」を持って守らなければいけない。そのことをライターは痛いほど理解していたのだろう。

やがて華やかな舞台を拒否し隠遁生活を始めたライターは、スタジオを閉鎖し、自分のためだけの写真を撮り始める。イースト・ヴィレッジ界隈で撮られた、なにげない日常風景ばかり。すべての作品は小ぶりで、どこか抽象的で、でも確実に彼自身が心を動かされたであろう地上の奇跡にあふれていた。

ソール・ライターという人が見出した「成功」は、世の中の人々が想像するものとはかけ離れていたのかもしれない。でも作品に映し出されている妻や猫の澄んだ瞳を見れば、それが正しい選択だったことが誰にも伝わると思う。

「雨粒に包まれた窓の方が、私にとっては有名人の写真より面白い」

その言葉に込められた説得力に私は胸を打たれた。
そして思う。春馬くんが今、雨粒に包まれた美しい窓をゆっくり眺められる場所にいればいいのに、と。

この世には「選べなかった人」もたくさんいる。だからせめて、その人たちが今は安心して自分を取り戻せるように、もし神様みたいな人がどこかにいるのであれば、私はそのことを静かに祈りたい。

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