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カナザワ映画祭2020グランプリ受賞『クールなお兄さんはなぜ公園で泥山を作らないのか』評

『クールなお兄さんはなぜ公園で泥山を作らないのか』評

昨日(11/22)に開催されたカナザワ映画祭2020にて、見事期待の新人監督賞グランプリ受賞を果たした保谷聖耀監督作『クールなお兄さんはなぜ公園で泥山を作らないのか』。まず、おめでとうございます!これからの活躍にも期待しております!
今回は僭越ながら本作についてのレビューを執筆しました。さらなる拡がりと進展にわずかでも寄与することができれば幸いです。

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はじめに
本作は良くも悪くも、非常に「錯綜した映画」である。錯綜しているかしていないかを判別するのは難しいし、個人の情報処理能力に依拠するところが大きいため、全ての人が錯綜した印象を受けるか否かはわからない。しかし数多く登場する象徴(空飛ぶ少年・近所で連発する通り魔事件・夜な夜なキャッチボールをしている怪しげな苦学生・エレベータに乗るとかならず出くわす髭面でアロハシャツの男・自宅から双眼鏡で外をチェックすることが日課の大学生…)や、目まぐるしく移り変わる視点(主人公の空想の世界・一人称・公園のブランコ…)に、見た人は少なからず動揺してしまうのは確かであろう。

ここで、ある疑問が生じる。ではそれらの表現は、1つのまとまりを為していると考えることが妥当なのか。それとも無数の世界からの接続点、偶然混じり合い衝突することで立ち現れた混淆とした世界と捉えるべきなのか。これは、表現はどこまで単純な規則に落とし込めるか、という問いでもある。

「人は肉眼で見える世界をこの世の全てであると思い込んでいるけれども、そうした人の視線を遮る“壁”の向こうにも、もう一つの世界がある。(中略)そうした向こう側の秘密を持ち来たり、象徴という形で世に伝えるのが芸術家の役目である」とはアーサーマッケン『白魔』の解説文に南條竹則が寄せたコメントであり、私もこの考えは概ね理解できるが、1点だけ、まるではぐらかされたように感じる点がある。壁の〈向こう側〉は、〈向こう側〉と簡単に形容されうるものなのか。そう形容してしまうと、ひどく単調な世界のように思われてしまう。私は、その〈向こう側〉では、無数の論理・規則が絡み合っていると考えることこそ娯楽・芸術との適切な距離の取り方なのではないか、と考える。

以下ではこのような前提に基づいて本作を考察していく。この前書きを、単なる「開き直り」とは捉えて欲しくない。表現というのはそれほど単純化すべきものではない。その前提の下、本作が持っている魅力のある一側面を導き出すことが私の役割である。これは製作者達への私なりの最大の敬意である。


1.二重の不安
本作に登場する人物達は、自分の周りで起こりつつある「何か」に非常に敏感である。
冒頭、空を飛ぶ主人公とそこから数百メートル離れた公園で読書をしている女性が、上空からの落下というアクシデントによって、偶然繋がってしまう。普通なら驚いてたじろぐことしかできないはずだが、女性の方はこれが夢なのか現実なのか判別することを諦めたのか、すんなりとその事実を受け入れてしまう。超現実的なオープニング・シークエンス、理解の範疇を超えた運命的な男女の出会いは、限りなく我々の日常に近い自動販売機の前で幕切れとなる。その一件以降、彼女のベランダには流行の洋菓子ドム-ルが何者かによって届けられることになるのだが、そこで彼女はその何者かに宛てた置き手紙を残すのだ。何が彼女をそうさせたのか、詳細な動機付けは示されないが、「何か」に生活がおかされていることを察知した彼女は、それとの接触を試みるという選択をしたのである。

「何か」に生活がおかされる感覚をさらに強めるのが、この地域で連続する「通り魔事件」である。前述の空飛ぶ男との接触は彼女の個人的な出来事であるのに対して、通り魔事件は一般に社会不安を引き起こす要因となるような、社会的な事件である。講義終わりに学生達が食堂に集い話す会話の内容が、それまでのサークルがどうだ、学業がどうだの話からうってかわって、この事件で持ちきりになるのも頷ける。そして遂にその中で、通り魔事件に出くわしてしまう者まで出てしまうのだ…と、ここで1つ事件についての重要な手がかりが示される。どうやら犯行現場には、凶器と思しき「石」が残されているというのだ。石で殴り殺す…あまり想像し難い。確かにブラックジャックという、靴下の中に砂利だの金貨だのを詰めて棍棒のようにした武器は存在するが、通り魔事件が持つ生々しさをそこに感じ取ることはできない。「石で人を殺すのか…?」。観客も一緒になって頭を捻っていると、ここで奇妙な関係性に気付く。「空から石を落とせば、人を殺せるのでは…?さらにそれだと狙いを定めることは困難であり、当然無差別の殺人になり得る…」。ここで空飛ぶ男と通り魔との〈二重の不安〉が生まれ、「何かが起こりつつある」という理屈はわからないが確固たる感覚が、登場人物たち、そして我々観客へと広がっていくのだ。その不安が向く矛先が、通り魔事件だけではなく、主人公・川口も含むところが本作のキーとなるポイントである。

実はこの〈二重の不安〉が生まれることには、必然性がある。というのも「空を飛ぶ男」と「連続通り魔事件」は、表裏一体の関係を為しているからである。OPやその後の展開で描かれる、川口が空を飛んで月に接近していくが何故か落下してしまうエピソードは、水面と太陽との間を飛びまわった挙げ句、太陽に接近しすぎて翼を燃やしたイカロスの神話を思い起こさせる。神話が如何にして誕生したのかという点については深入りしないが、重要なのは神話が〈繰り返される〉ことにある。民衆の倫理を示すためには当然それは〈繰り返し〉伝えられるし、もしかするととある出来事が〈繰り返される〉ことによって神話そのものが誕生したのかもしれない。ともかく繰り返すことで、神話は動力を持ち始める。それと同じように例えば全く関連性のない場所や時間で、一人また一人と人が殺されていっても、世間の人々はさしたる関心は抱かないであろうが、一見バラバラに見える殺人事件がとあるルールに則っていると判明したとき、一連の事件はまとめて「連続」殺人事件と呼ばれることになる。この時、「連続殺人事件」という構造が独り歩きを始め、人々を戦慄させる。似通った両者の物語が平行して、まるで相互に影響を与え合うようにして進むため、一見無垢そうに見える川口を見ていると、どこか居心地の悪さを感じてしまうのだ。

実際具に検証していくと、川口は狭窄的な人間であり、常に自分の空想の世界に浸り、外部の世界との「大人な」関係性というものを築けないでいる。好きな異性がいたら話しかけてご飯を一緒に食べに行き、散歩して距離を縮めていくのではなく、彼は反対に距離をとりながら尾行し、その子のベランダにバレないように忍び込んでお気に入りのお菓子を差し入れる。端的に言ってそれはストーキングであり、到底許容できる行為ではないのだが、それが川口の人付き合いの仕方であり、そのことに対して罪悪感を抱いている素振りも一切見せない。彼は非常に自分中心主義的な発想の持ち主であると言える。日常生活で身につけた知恵からも想像できるように、その周囲にいる人々は自分中心主義的な考えに巻き込まれ、痛い目を見るのが常である…と、簡単に断定してしまいそうになるが、そうはさせないのが『クールなお兄さん』である。先ほどの神話の成り立ちの話を踏まえるなら、川口がそのような行為に出るのは、「川口の意思」だけで決められているのではなく、厳密に言うなら「川口の意思」と外部の構造、つまり〈向こう側の論理〉によって決定づけられているのである。この2つの力の働きによって、〈繰り返し〉が生じるのだ。


2.〈情動のスイッチ〉と〈向こう側の論理〉
では、川口という男は、一体どのような物語を〈繰り返す〉のか。その起源を探るには、彼が夢想する「とある別の時間軸」の話をしなければならない。その時間軸には、公園で泥山を作る青い服を着た少年・その少年をからかう地域の悪ガキ達・そんな悪ガキから少年を守る友人・遠く離れたところでピアノを弾く少女が登場する。悪ガキ達にからかわれながらも、そんなこと気にせずに泥山作りに熱中する少年のことを不憫に思ったのか、友人は彼らを追っ払い、そして少年に尋ねる。「何作ってんの」。それに対して少年が「エレベーター」と答えると、突如少年は空を羽ばたく身振りをしながら公園の中を縦横無尽に走り回る。友人はそんな彼を優しく見守るような目をしながらも、何故か彼は少年に向かって銃器の照準を合わせるポーズをする。そしてピアノを弾いている最中に何かを察知した少女は、走って公園まで向かう…。この段階ではイマイチ理解ができないこのエピソードが、後に川口を中心に〈繰り返される〉ことになる。川口と彼らとの関係は具体的に明かされないため、一体この時間軸が今を起点にどこに位置するのかは我々が知る由もないが、やはり空を飛ぶ身振り・銃器を構えるポーズ・不意に何かを察知するといった描写との連想から、「少年―友人―少女」という構造がそっくりそのまま今の川口らに当てはめられていることは想像に難くない。

この〈繰り返し〉を指揮しているもの。それは上で述べたように、まさしくその構造自体が持つ動力が、さらなる〈繰り返し〉を推し進めるのである。この作品世界で〈繰り返し〉が生じる理屈は、決して登場人物達の状況に依拠しておらず、彼らが通り魔事件を目にしてどう感じようが、彼女に振られようがお構いなしに、〈向こう側の論理〉で勝手に作動する。しかし正確性を期するために指摘するなら、この〈向こう側の論理〉に無自覚ながらも触れてしまっている、もしくはその論理を体現してしまっているのが主人公・川口であり、彼の〈情動のスイッチ〉がオンになることで、その構造はより激しく運動しだすと言うことができる。劇中何度も映される「月」がまさにその合致を裏付ける表現となっており、月に近づきすぎた、もしくは離れすぎた川口の視線のピントが月をガッチリと捉える瞬間に、まるで世界全体が川口と連動しているかのような感覚を我々に与える。見事な表現である。


3.時間感覚のズレ
ここで、ではその〈情動のスイッチ〉がオンになると共に「構造」と「川口」とが動き出す瞬間。そしてそれに周囲の人間が巻き込まれる瞬間に、どのような演出が施されているだろうか。それはカラーからモノクロへの画面色彩の転調と、スローモーションの使用によって為される。この妙な時間帯、つまりモノクロかつスローで進む時間帯は文字通り「時間がゆっくり進んでいる」感覚を与える。と言うと見たままだが、まさにその時間感覚こそ川口にとって最も心地の良い時間である。同時にそれは、周囲の人々にとっては、どうも妙な感覚を与える時間でもあるのだ。そのことが顕著に現れているのが中盤の川口の一人称視点で進む20数分ほどのワンショット。作品内時間で言うと数分に満たない時間しか経過していないのだが、彼の中ではそれ以上の時間が流れている。ここに明らかに両者の〈時間感覚のズレ〉が描かれている。
それは川口が、ずっと同じ構造を繰り返すこととも関連しており、おそらくそれが川口と周囲の人々とのあらゆる価値観のズレを生んでいる原因なのであろう。彼は我々とはまるで異なる価値観の下、生きているのだ。それが、〈向こう側の論理〉なのかもしれない。


4.川口と作者の〈立ち位置の一致〉が生む〈二重のアイロニー〉
〈向こう側の論理〉を持ち来たり敷衍する役割を与えられている川口。冒頭で述べたアーサーマッケンの言葉を踏まえるならば、その役割は作者と等価なものであるとも言える。ある種メタ的な立ち位置にいるキャラクター・川口の〈情動のスイッチ〉と、劇中流れる壮大なオーケストレーションが盛り立てる〈高揚感〉が連動していることも両者の立ち位置の一致を裏付けている。ここで容易に作者と作品内の登場人物を関連付けることはしたくないが、〈立ち位置の一致〉が生む物語的効果は、たしかに存在している。

ここでもう一度イカロスの神話を思い出すと、この話には欲望の赴くまま空を飛ぶイカロスを阻む存在として、太陽の存在が描かれている。太陽に近づきすぎて翼が燃えてしまうというのは屁理屈としても上出来。では、『クールなお兄さん』における太陽にとって替わるものとは何なのか。それは、新藤という男である。新藤は人間関係を築く能力に長けており、学業成績も優秀で、顔立ちも整っており、川口と違って「大人な」人間であるのは間違いがない。月に近づきすぎる、すなわちあまりにも自由奔放に生きる川口を咎める新藤という存在が、端からこの〈繰り返し〉には組み込まれている。

では、この限界を提示される川口と立ち位置が一致している作者が直面する限界とは一体何か。それは、『映画』の限界なのかもしれない(とか言うとキレイにまとまるのだ)。

全てをカメラに収めることはできない。しかし、フレームで切り取られた部分と部分を衝突させることで、何か言語化不可能な、妙な何かが生まれることがある。そこの境界に世界の全てがあるのかもしれないが、「そんなのまやかしに過ぎない」というツッコミがすぐに飛んでくる。映画が生まれ持つ限界とまるで矛盾するような態度をとる川口は、空を飛んで彼女の行動を尾行する様に現れているように、すべてを「見よう」とするし、カメラも川口が見る景色をなるべく「見せよう」とする。ここに、神話的構造/映画というフィールドの中で、欲望の赴くままに全てを見よう/見せようとする川口/作者の〈立ち位置の一致〉が見られ、そこに生じる〈二重のアイロニー〉が、この作品世界に信じがたい程の物語的効果を与えているのだ。


おわりに
ラスト。川口は自分の時間軸に彼女を巻き込むことに成功する。もうその世界には、彼を咎める者は存在しないのかもしれない。これまでとは異なる〈繰り返し〉が新たに生まれるのかもしれない。2時間50分という長い時間をかけて、たったそれだけの変化しかしないこの男のことが、彼が体感する時間の〈遅さ〉が、なぜか少し羨ましく思えてしまう。死んでしまった時間。本来なら切り捨てられるべき時間。銃口から発射された銃弾が被害者の胸に着弾するまでの0コンマ数秒しか着目しないのが「普通」であるなら、川口/保谷はそれを24時間に拡張し、核心的な0コンマ数秒「以外」の時間に耽溺している。

ラストカット、二人して空を飛ぼうと大きく踏み込むところでこの映画は幕を閉じる。もうそれ以上、カメラは「撮りようがない」のだ。もしかしたらこの瞬間から、『映画』ははじまったのかもしれない…。

長い文章お読みいただき、ありがとうございました。 大坂