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午前五時の挨拶

十年以上前のことになるが、仕事の関係で、早朝の四時に家を出ていたことがある。
工場には五時に入らなくてはならない。通勤に少なくとも一時間かかるから、起床は午前三時であった。
始めの数日、妻もいっしょに起き出して、朝食を用意してくれた。
テーブルに牛乳とバナナ一本とビスケット数枚が並べられていた。私は眠気の覚めぬまま、バナナを牛乳で胃の腑へ流し込んだ。三日目には、「起きて直ぐ家を出るから、寝てていいよ」と妻に告げた。
感謝の思いに至ることができたのは、ついこの頃のことである。

未明三時、暗い廊下を足元に気をつけて洗面所へ行き、髭をあたり、洗顔をして、手早く身支度を整えると、前の晩用意しておいたバックを手に取り、消灯。足音を忍ばせて家を出た。
その間、四十分、毎朝寸分違わぬ動作をノルマでもこなすように淡々と、無感動に、無意識に、ただ会社に行くだけのために繰り返していた。

朝五時の工場は、うす闇に包まれて静まり返り、構内が照明にぼんやりと映しだされていた。駐車場から管理棟へ向かって重たい足取りで歩いて行くと、人の気配が近づいて来る。
最終の巡回に回っている守衛のYさんとここですれ違うのは、毎朝のことであった。
ずんぐりした体が、照明の明かりの中に現れる。
「今朝は寒いですね」声をかけると
「これから先、もっと寒くなるよ」
まだ明けきらぬ静寂の中に元気な声がかえって来る。ここで交わす一言二言で、、私は会社の人になっていた。

未明の出勤にもすっかり慣れた六年目
の春、突然、私に異動の辞令が来た。
事務の引き継ぎをすべて終え、送別会も開いてもらい、工場での最終日、新しい職場に持参する書類を受け取って、部長と数名の職員に見送られ管理棟を出たのだが、駐車場まで来たときに足が止まった。毎朝欠かさず挨拶を交わしていたYさんに挨拶もせずに行ってしまうのが、礼儀に欠くように思えた。
今からでも行ってみようか、しばらく迷った末、守衛所へ向かった。
守衛所は、ちょうど夕方の忙がしい時間帯でゲートには、何台ものトラックが列を作っていた。窓口には、受付をするドライバーが並んでいる。
人垣の後ろから守衛所の中を窺っていると、ドアが開き、Yさんとが顔を覗かせた。
「今日でお仕舞いなんだってね。朝早くからご苦労様でした」Yさんの声には、早朝と同じ温もりがあった。
「お世話さまになりました」
忙がしい最中とはいえ、それだけの言葉しか出てこなかった。
ゆっくりと駐車場へ歩いていった。
五年間いた職場を離れる名残惜しさが、この時になって、沸き上がってきた。

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