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いつものサンクチュアリ

 カタカタカタ、ターン!
 カタカタカタ、ターン!
 エアコンの、ついている時は気に留めず、消すとその存在に気づく無感覚の音を超えて、フロアにキーボードを叩く音が響く。

 社員が増えたせいなのか、月の最低出社率のルールを引き上げんとする経営による無慈悲な野心の実現に向けた布石のためか、これまで2フロアだったオフィススペースが今月から拡張し、3フロアとなった。
 新しいフロアに固定席はなく、全てフリーアドレス席。個人の荷物をしまうロッカーがここにはないせいなのか、最低限の設備しか整っていないせいか、エアコンの調子が悪く、たまに暖房が効かないせいか、階を隔てることでコミュニケーションしづらくなり、業務に差し支えが出るせいなのか。開放されて数週間、このフロアを使う人はあまりいない。そして、人がいないものだから、さらにこのフロアに下りてくる人がいない悪循環。
 これを良しとする人がいる。
 階上のフロアの闊達なコミュニケーションから逃れた、よほど作業に集中したい人か、もしくは天性からコミュニケーションに難題を感じているのか、ごく僅かな人がこのフロアに降りてきて、安らぎの表情を浮かべる。
 このフロアが開放されて、いの一番に先陣を切ったのは私であった。一人もいないものだから、不安になり、総務部長に「本当に使っていいんですよね?」と確認したくらいだった。ワンフロア独り占め。そして、今やこのフロアでないと出社できない体質となった。出社した日は「いつも」このフロアの一番端の席に陣取り、真新しいフロアにこびりついた主と自負している。

「いつものように」このフロアに出社すると、「いつものように」人は少ない。話したことのない、男の同僚が一人だけだ。
「おはようございます。」
 私の発した挨拶の声があまりに小さかったのか、または作業に集中しているか、返事はない。まあいいかと思い、我が固定席と化した「いつもの」席に荷物を置くと、パソコンの電源コードを取りに個人ロッカーのある階上に上がる。そして、会話や対話が点在するフロアに入るや、「いつものように」誰にも気づかれぬように個人ロッカーに向かい、階下に戻る。

 フロアに入るや違和感を覚えた。
 男の同僚は「いつも」はいない人の雰囲気であった。
 身体は大きく、よく焼けていて、髪型はツーブロック。ジャケットの下はYシャツではなく、白いTシャツであった。
「苦手なタイプだわあ」と、彼の見た目を見て思った。

 ジャケットにTシャツを合わせる男から透けて見えるは、須く学校、会社とこれまでの人生で勝ち続けたてきたことにより、もたらされた溢れる自信である。己が半生に自信がなければできないファッションだ。
 成績優秀。スポーツ万能。特技多彩。
「能ある鷹は爪を隠すなんて、ふざけた慣用句。能ある鷹はその研ぎ澄ました爪を見せつけるべし」と信じて疑わない。高みを目指して努力努力。勉強勉強。趣味は読書。インフルエンサーのミリオンセラービジネス書読み漁る。コミュニケーションは闊達なので、私が歴史が好きなことを知れば、「僕も歴史好きなんですよ」と明るく話しかけてきて、「知ってました?ナチスが源泉徴収を発明したんですよ」などというようなファスト教養本で得た間違った知識を披露する。
 日々築山造りに勤しんでは、その頂の上にて仁王立ちして、勝ち誇った顔で下々を見下ろす。
 されど、競争社会に勝ち続けたことにより、敵は多いことに薄々気づいているが、誰もいないところで『嫌われる勇気』を読んで、慰めとしている。
 知らんけど。

 さすがに偏見が過ぎる。私は反省した。
 己が仕事に集中しよう。

 集中できない。
 その原因はただ一つ。 

 カタカタカタ、ターン!
 カタカタカタ、ターン!

 二人しかいないフロアに、彼のキーボードを叩く大きな音が響いた。
 自身こそ力。力こそ自信。
 その発露として、力強く彼の太い指はキーをリズミカルに叩く。そして渾身の力でエンターキーをぶっ叩く。

 それは我が静謐としたサンクチュアリの瓦解していく音だった。畜生。

 キーボードの音だけで、悪口を書き連ねる。
 読者諸賢は私が心の狭隘さに呆れるのかもしれない。それは私自身を要因とする苛立ちのせいかもしれない。

「髪伸びましたね。」
 先ほと誰にも気づかれずに階下に降りようとしたら、ちょうどエレベーターホールで出社してきた女性同僚から挨拶代わりに話しかけられた。
「せっかく前髪がここまで長くなったからね。切りづらくなって、V6の三宅くんのような前髪を目指そうかなと。」
 軽い感じで答えたつもりが、少し時が経ってなんとも気色悪い返事をしてしまったのだと、鮮度抜群のトラウマを生誕させてしまったばかりなのであった。

 これまでヘアスタイルという概念のない我が毛髪。それなのに四十半ばにして、色気づいて伸ばし始めたのか。
 否。
 信じて疑わなかった我が豊富な毛量も俄かに怪しくなくなり、明らかに髪からハリが失われ、毛のボリュームも減った。
風呂上がりの小学三年生の次男からは
「風呂にパパの髪の毛が浮いていて、キモい!」と苦情も入るようになった。
 昔からサッカー選手の男くさい長髪に憧れを持っている。野人岡野ほどではないにせよ、いつの日か、浦和の興梠慎三の髪型を模したく、あわよくばベテランの域に入ってからのズラタン・イブラヒモヴィッチのような髪型まで行きたいと思っていた。されど、サラリーマンではとても無理な髪型だ。
 しかし、我が毛根は明らかに衰えに入った。
 まさに汎テュルク主義の死地を求めた「エンヴェル・パシャの最後の冒険」のごとき、我が毛根の死地を見つける人生最大にして最後の冒険。死の直前、つまり会社から指摘されるか、妻に真剣に叱られる、ハサミを入れるまでは……。
 要するに髪が垂れ下がって鬱陶しいのである。

 苛立ちを自省に展開したことで、彼を許せる気持ちになった。
 スマホの着信音が鳴り響いた。
 彼が電話に出た。
 電話を終えるや、画面に向かって話し始めた。パソコンの向こうの相手の声もはっきりと聞こえる。
 イヤホンなしで商談を始めた。

「いつもの」サンクチュアリは完全に崩壊してした。
 彼の発する音に対抗すべく、コカ・コーラを買ってきて、プシューと空けて、グビグビ音を立てて飲んでは、大量のゲップをしてやろうか。
 もしくは大音量の屁でも放ってみせようか。
 私は厭世的となり、自暴自棄になりかけた。
 冷静になろう。
 崩壊したサンクチュアリの瓦礫を掻き分け、早々にランチへ出ることとした。
この苛立ちを忘れるため、ラーメン半チャーハンの炭水化物から得られる幸せホルモンを我が肉体に充填せねば。
 十五分ほど歩き、古い東京ラーメンの店が見えてくるあたりで、十二時前にも関わらず十人以上並んでいる。「いつも」は多くて五人くらいなのに。
 ラーメン屋の「いつも」も崩壊した。

 別の町中華で、もやしチャーシュー麺大盛を啜り、汁も一滴残さず飲み干し、その罪悪感から「いつも」とは外れ、カテキン増量による脂肪燃焼を期して濃いお茶を購入した。

 焼け野原となったサンクチュアリの夢の跡に戻ると、彼はいなくなっていた。外出したのか。上のフロアに戻ったのか。
 午後はサンクチュアリ再建の時間である。
 しばらく静謐な時を過ごしていると、総務の薩摩さんがやってきた。
「この階に自動販売機を置くんだけどさあ。コカ・コーラのにしてあげたよ。」
 デキる男と薩摩さんは同意語である。
 私が「いつも」飲むコカ・コーラ。
 入社してから十数年、オフィス環境の改善を問われれば、必ず「コカ・コーラ社の自動販売機の導入を」と回答していた。
 窓の外を見るや、空はどこまでも青く、澄み渡っていた。その空に、我がサンクチュアリの復活の狼煙が高らかに上がっていた。

 気分良く仕事し、「いつものように」二十時二十一分発の東京駅始発の電車で座って帰るべく、時間調整のために、東京駅地下のスタンディングバーでビールを一杯飲む。TOKYO隅田川ブルーイングのペールエールが「いつものように」胃に染み渡る。
 「いつも」ビールだけは喉から膀胱に直接到達しているのではと思うほど、尿意は近く、飲んだ量と出す量は対になっている。
 最寄駅に着くや、すぐにトイレへ行き、尿を放つ。
 それなりに大ききな駅なので、小便器は十個以上並び、全て埋まっている。同世代もいれば、上の世代もいる。
 どの小便器からか、屁の音がする。
 そうすると別の小便器からも屁の音がして、二重奏が三重奏へ、至るところで屁の音色が奏でられた。
 トイレで屁の音を出すこと。
 この年代になれば、もはや羞恥でなくなるのかと思った。
 午前中、私はオフィスフロアで大きな屁でもかましてやろうかというアナーキーに陥りそうになった。
 しかし、この駅のトイレはコペンハーゲンのクリスチャニアのごとき、アナーキストのサンクチュアリなのかもしれない。
 このトイレにいる皆が奏でる屁。これは何かしらのメタファーになりうるのでは。

 この男は相変わらずだ。
 SNSでこの男が冗漫な文章を書き連ねていたから、読んでしまったが、全くの時間の無駄。
 サンチュクアリだの、屁だの、くだらない。
 不毛不毛。
 この男は成長意欲はない。コーラばかり飲んでいるデブで、頭も悪けりゃ、見た目も悪い。救いようがない。
 一円にもならないのに、こんな長文を書き連ねる意味が分からない。

 反面教師とするにも、俺の成長にとって目障りなので、縁を切るか。
 今日も会社のやつらのアホさに呆れ果てた。俺のようなビジネス感覚のかけらもない。
 この後、MBA時代の「いつも」の濃いメンバーが集まる会に行く。
「いつも」お互いに刺激をもらって、俺はさらに高みを行く。
 行こう、サンクチュアリへ。


 彼らは「いつものように」お互いに己が登った築山の頂の高さを比べ合う。
話に熱くなり、ジャケットを脱ぎ、Tシャツになる。
「お姉ちゃんの店に行こうか!」
 彼らは、私にはコミュニケーション力も財力もないがゆえに決して近寄らないキャバクラへ「いつものように」繰り出す。
 ここは彼らのサンクチュアリだった。
己が築山がいかに高みであるかを「いつものように」滔々と語り、夜更け過ぎまで、「いつものように」キャバ嬢は嬌声を上げる。

サポートしてもらって飲む酒は美味いか。美味いです。