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あの時、あの瞬間に

「あの時死んだのかもしれない」
 健次は茜色に染まりいく空を見やりながら深い吐息を洩らした。
「鍛錬しかないんだ。でなきゃあ、絶対強くなれねぇんだよ」
 同じ黒のウィンドブレーカー姿の二人連れのひとりが、並走するもうひとりに諭すように告げた。
「なにニャついてんだよ」
「ニャついてなんかいないすよ」
 語気強く言われた男は、無防備になにも考えずに半笑いで返す。
「ニャつくんじゃねぇ」
 男は立ち尽くしている健次を邪魔臭そうに避けながら言い放った。
 ――あの瞬間、ふっと目の前からすべてが消えた。
「なんでいまそんなこと言うんすか」
 ――いきなりだった。なんの前触れも予兆もなく 
「やっぱ、分かってないな、お前は」
 ――視覚も聴覚も、そして意識も。すべてがあの瞬間に完璧にシャットダウンされ、なにかが切り替わった……。
 走り過ぎるその男たちの背中を無感覚で見送りながら検証していた。
 やや離れたところで突然二人が掴み合いの喧嘩をはじめた。その時初めて彼らの存在が健次の意識に上った。
「ふざけたことばっか言ってんじゃねぇ」
「やめてくださいよ」
 相手の掴んだ手を振り払い距離をとる。
「なに拒んでんだよ」
「なんも……」
 詰め寄られた男は背を向け逃げ出しかかった。
「待てよ。逃げてんじゃねぇ」
 掴み掛かろうと突っ掛かっていく。
「なにすんですか?」
 遠ざかって行く男たちを健次はその場に立ち尽くしたまま眺めていた。なんの感情も思いも湧かない。
「お隣のお婆ちゃんからいただいた竹の子がまだ一杯残ってんのよ。貰ってくれない?」
「いいの?」
「そうしてもらえると有難い」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「ぜひ、そうして」
 白のランニングウェア姿の婦人たちをラブラドールレトリバーに曳かれた藍色のジャージ姿の女の子が足早に追い越していく。
「いつもは無口でとっつきにくいお年寄りなんだけど、時々とても優しい一面を見せてくれるのよね」
「そういうお年寄り私の近所にもいる。公園散歩する時にいつも会うんだけど、挨拶しても無反応で。ただベンチに坐ってぼーっと遠くを眺めてるか、通りかかる人を目でジーっと追ってるの。最近は黙礼だけで通り過ぎちゃってるけど」
「多くなったわよね、そういうご老人。やはり社会現象なのかしら」

 さまざまな事象が視界に入り、風のように流れていく……。

 あの時、あの瞬間、健次は駅のホームで気を失って倒れた。なんの前触れも予兆もなかった。
 会社の健康診断を受けたばかりで、ほんの少し数値が高かった以外なんの問題もなく、問診してくれた健康診断センターの医師からも「治療レベルではない」と言われてお墨付きをもらったように思っていた。
 あの瞬間に完璧に意識が消えた。いきなりポンと目の前の視界がシャットダウンされた。
 身体を揺すられ、声を掛けられ、意識がやんわり戻ってきて、駅のホームに寝かされていること、背中が冷めたいということに気づかされた。と同時に崩れ落ちる間際の記憶が蘇ってきた。
「大丈夫ですか?」
 目の前に学生服姿の幼さを漂わせた顔があった。
「いま駅員の人が救急車を呼びにいってます」
 痛みも苦しさもない。冷たいタイル張りの床に手をつき上半身を起こそうとしたところ
「まだ動かないほうがいいですよ」
 脇に立つスーツ姿の黒メガネを掛けた中年男性に制止された。
 ――あの時死んだのかもしれない。すべてがシャットダウンされ、瞬時に闇の世界、無辺の空間へ転移したような――そんな感じだった。そして、なにかが刷新、覚醒されたような。
 あのまま意識が戻らなかったとしたら……。
 そうなっていたとしたら、それはそれで幸運な絶たれ方、迎え入れ方だったのかもしれない。痛みもなくもがき苦しむこともない。完璧で、文句をつけようがない。老人たちの言う「ポックリ死」の理想型だったかもしれない。
 三十数年しか生きていないけれど、いま死ななければならないとしてもなんの執着も未練もないように思う。
 そう言い切っていいのか。
 本当にそうなのか。
 愛する人との出会いもなく、愛し愛されるべき肉親たちとの時間もそれほど持てていないじゃないか。本当に悔いは残らないのか。
 いま担当している案件や取引先のことなどが頭に浮かぶ。引継がなければならない事項や上司のことなどをつい考え始めている。そんなもの、無責任だ、不誠実だなどと言われようがどうだっていいことじゃないか、と毒づく。
 あの時の、あの瞬間に受けた衝撃的な体感、想念のことを思うと、すべてのことがどうでもよくなってくる。トリビュアルなことに思えてくる。
 なんのしがらみもしがみつくものもない。義務も責任もない。どうしてもやりたかったこと、やらなければならなかったこと、そんな欲も執着もない。未練など湧きようがない。
 本当にそうか。そう言い切れるのか。
 この世に生まれ、与えられた一度しかない人生がそれでいいのか。
 そう自問すると、矢庭に即答できなくなる。
 救急搬送された病院の医師によると、昏倒するような異常はなにも見つからなかったとのこと。確かになんの自覚症状もないし、後遺症もない。自分の足で歩けてもいる。
 心療内科の診察予約を入れてもらったけれど、そんな治療の必要を感じなかった。そんな助けをいま自分が求めているようには思えなかった。
 病院を出たところで、会社に連絡しなければという思いが浮かんだが、どうでもいいように感じられた。
 このまま自分が行方不明になって連絡がとれなくなってしまったとしたらどうなるのだろう。社会的に抹殺されるのだろうか。生きる資格がないと烙印を押されるのだろうか。すべてから見放されてしまうのだろうか。
 誰か悲しんでくれるだろうか。案じてくれるだろうか。
 いつも乗り換えホームから眺めていた新幹線のホームが頭に浮かんだ。どこでもいい、どこか知らない世界へ行ってしまおうかという思いが湧いてきた。
 これまでの自分はあの瞬間に死んでしまったのだ。自分を取り巻く環境からも、社会的な繋がりからも、血縁からも解き放たれたのだ。そのきっかけを貰ったのだ……。

 なんでもないさまざまな事象に無自覚に移り、かそけき煙のように漂っていく。
 人から人へ、人から物へ……さらに道端に転がっている石ころへ、草花へと彷徨いわたる。
 陽は山の端に隠れ、果てる前の一瞬の盛り火のようにあらゆるものを色濃く染めている。
 セピア色の古めかしい映像が立ち現れる。荒涼たる台地。枯れ果てたススキの群落。亡くなった人を葬る墓のような穴がそこかしこに空いている。

 

 

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