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シズカとコズエと ②


 2 コズエとの出会い

 シズルが黄瀬川の上流にある、旧瀬滝村の限界集落に引っ越して来て間もないころだ。
 滝野湖が一番美しく眺められる見晴らし所に、無造作に転がしてある楢の木の上に腰掛けていた。シズカも一緒だった。
「まるで飼い主とおんなじだね。同じまなざしで眺めてる」
 ジーンズに革ジャン、茶色のブーツ、その手にフルフェイスの黒ヘルメットを持った、髪の長い女性がすぐそばに立っていた。シズカと一緒だったから気安く声を掛けられたのだろう。
 森林のなかを疾駆するオフロードバイクの音は先ほどらい聞こえていたが、まさかその主がこんなに近くに立っていようとは思わなかった。
 煌めく湖面に心を奪われていたとはいえ、五感は研ぎ澄まされているはずなのに不思議なことに気づけなかった。
「おかしくなるくらいおんなじ目であたしを見てるわ」
 シズルは無言のまま湖に顔を戻した。シズカはまだ彼女を見上げたまま尾を振っている。
「名前なんていうの?」
「俺?」
「ちがう。この子」
 彼女は自分を見つめ続けるシズカの方へヘルメットを向けて言った。
「シズカ」
「人間の名前みたい」
「………………」
「あたしは小さな枝と書いて、コズエ」
「………………」
「で、あんたは?」
「シズル」
「いち音ちがいなんだね。この子と」
「そういう意味で名づけたわけじゃないよ」
「どういう意味?」
 シズルはそれには答えず、湖の方へ顔を向けた。
「どんな字?」
 それにも答えず、湖の方を見続けていた。
「邪魔みたいね。じゃあ、シズカ。また会いましょうね。飼い主様のご機嫌のいいときに」
 そう言い残すと、離れたところに停めてあったバイクの方へ歩いて行く。シズカが鳴き声をあげ、彼女についていこうとする。彼女がシズカの頭を撫でてやると、その手を舐めた。
 彼女はバイクにまたがり、フルフェイスの黒ヘルメットをかぶり、エンジンを掛けてひと吹かしさせると、颯爽と県道の方へ山道を駆け下りていった。
 湖面をすべってきた風が吹き上がりシズルの頬を撫でた。すでに空気は初秋のものだった。
 ――もうすぐ湖を取り囲む樹々は一斉に色づき始めることだろう。
 シズルとシズカは日が陰るまでその倒木に腰かけていた。

 ――➂に続く

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