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真奈美の「創作日記」

「う、う、うまなみ……」
 やっと声が出せた。絞り出すようにして。
 ――まずい。またやってしまった……。
 一瞬にして視聴覚が凍りつく。癖というより軽い神経症状とでも言うべきか。
 その場に集まっていた五、六人の無表情な顔が一斉に彼女の方へ向けられた。
「馬並み?」
 そのうちの一人が無遠慮に言い放った。まじまじと探るように見ているその男と目が合う。
「宇波です。お誘いをいただきまして……」
「馬波さん?」
「いえ違います、宇波です」
「ああ、宇波さん」
 一番奥の椅子に坐っている小太りの女性が満面笑みをたたえて立ち上がった。
「待ってました。さっ、こちらへどうぞ」
「横尾さん、ですか?」
 うんうんと大袈裟に頷きながら、手招きしている。
 その場の全員の好奇の眼差しが注がれているのを感じながら、手招きしてくれている女性の横に立った。
「今日はわざわざお越しいただいて、……横尾道子です」
「初めまして。宇波、宇波真奈美です。お誘いいただきまして、ありがとうございます」
「みんなに紹介しますね。こちらがさっき話していた新規加入希望の宇波さん、宇波真奈美さんです」
 なぜか何人かが拍手してくれる。
「すいません。馬並み、なんて言っちゃって。そう聞こえたもんで」
 最初に言葉を発した若い男が、破顔一笑しながら詫びた。
「馬みたいな顔だとは昔からよく言われます」
 全員の笑いを誘った。
 今の会社で初めて全員に紹介された時のことが浮かんだ。品定めするような鋭いまなざしばかりだった。このようなウェルカムな感じではなかった。
 ――仕事じゃないとこんなに違うんだ…… 
 職場の雰囲気はぎすぎすしていて、他の人からいつも監視されているような不自由さがある。傷をなめ合う同僚の一人や二人いてもよさそうなのに、皆無だった。ミスすれば全員から口には出さなくとも冷ややかな目で見られた。妬み、嫉み、無関心、パワハラまみれの職場に慣れた身には戸惑いが先行する。どんなへまをやらかしても笑って受け入れてくれそうな寛容さに溢れている。
「今日は見学参加ということで来ていただきました。加入して頂けるかどうかは皆さんの魅力次第ということになります。責任重大です。こちらが審査されるというわけです」
「責任重大じゃん」
「ええーっ、俺、もうやらかしたかも」
 先ほどの若い男が髪を掻きながらそう言うと、どっと笑いが起こった。真奈美も緊張がほぐれたのか微笑んでいる。
 
 集合団地の掲示板に貼られていた会員募集案内でこの「植物よろず同好会」の存在を知った。風変わりな会の名称に妙に心を惹かれた。
 いますぐにでも心と身体をがんじがらめに縛りつけている「呪縛」を解きほぐしてあげなければとんでもないことになってしまうという危機感があったからかもしれない。切羽詰まった状況に置かれているという自覚があるからかもしれない。だからこそ「緩和」してくれそうなものに吸い寄せられていってしまうのじゃないだろうか。
 ――柔らかくて、厳格でない、緩い集まり……
 なにも「植物」に惹かれたわけではない。たまたまそうだったのに過ぎない。特に「植物」のことが好きだとか知りたいという渇望があったわけでもない。「緩和」させてくれるものであればなんでも良かった。たとえ怪しい新興宗教であったとしても……。
 会の説明を読み、問い合わせてみようと思うまでに時間はかからなかった。チラシに掲載されていた電話番号が会の世話役である横尾道子の自宅だった。
「どうしてうちの同好会に加入しようと思ってくれたの?」
 真奈美はそう問われて咄嗟に真情を吐露しても仕様がないと思った。
 ――他人に伝えるのも理解してもらうのもそう簡単なことではない。
「なんか面白そうだったからです」
 あたり障りのない理由を口にした。
「私も同じ」
 真奈美は真意を確かめるために相手の言葉を待った。
「見学しに行った時、会の雰囲気がとても和やかで、皆さんの顔が生き生きとしていたのよね。で、直感したの。縁だ、と。仲間になりたい、皆さんとお友達になりたいとも思った」
「………………」
「会のメンバーの職業はいろいろで、会社員、自営業、歯科衛生士、図書館司書、あと主婦や保育士など。性別も年齢もまちまち。若い人の方が多いかな。本格的に研究者を目指してるわけじゃないし、植物のことがなんとなく好きで、観察したり、育てたり、幅広く知識を増やしていけたらいいというのが会の趣旨だから。ゆるい同好会でいいと思ってる。参加できるときに参加してもらえばいい。そのゆるさがうちの同好会の魅力かな」
「そうなんですね」
「真奈美さんは何してる人?」
「調査会社の職員です」
「調査会社って、浮気調査とか?」
「いえいえ」
 真奈美はその見当違いがおかしくて思わず笑ってしまう。
「探偵事務所じゃなくて。企業向けの景況動向調査とか、市場調査とか」
「なんか難しそう」
「資料整理やデータ入力がメインで、クリエイティブなところが全くない仕事で……」
 職場の雰囲気の悪さを口にしそうになって、慌てて口を噤んだ。
「週末に懇談会があるから見学に来られたらどう? 加入するかどうかは後から決めればいいから」
 集合場所と時間を教えてもらって電話を切った。
   
「植物分類学の父」と呼ばれている牧野富太郎博士の邸宅跡にある牧野記念庭園を年一回訪ねたり、近隣の博物館や植物園巡りをしたり、実際に山野に出かけて行き、各々好きな草花を採取し、標本づくりの真似事をしたりする肩ひじ張らない植物好きの集まりである。
 この日は今後の活動方向についての意見交換会だった。いろんな企画や思いつきが面白おかしく提案された。終始和やかな雰囲気で、見学者という立場であったがすでに会員であるかのような居心地の良さを覚えていた。いま自分が欲しているのはこのような人情味溢れる交情だったのだと思い至らされる一時だった。
 真奈美は悩まなかった。そう日を経ないうちに横尾道子に加入する旨の連絡を入れていた。

        *

 真奈美は「植物よろず同好会」に入会したその日から、一風変わった「日記」をつけ始めた。「創作日記」とでもいった方が相応しい内容だった。
 同好会での内容や出来事を事実に縛られないで、彼女がこうあってほしい、ほしかったという思いや想像を自由に交えて書き綴られる。
 入会した月の最終日曜日、真奈美は郊外の山野での草木観察と採取会に参加した。その日は曇り日であまりいい条件ではなかったが、決行された。現場に着く頃には本格的に雨が降り始め、一向に止む気配がなかった。参加者十数名全員が仕方なく野外自然活動センターへ移動し、展示されている昆虫や植物の標本見学会となった。終わりは近くのお蕎麦屋さんでの残念会だった。
 でも真奈美の「創作日記」では、こう虚構化される。
 これ以上ない好条件のもと草木観察・採取会は実行され、暖かい木漏れ日のなか樹木の香りと霊験あらたかな研ぎ澄まされた冷気を胸いっぱいに吸い込みながら散策し、何種類もの名も知らぬ珍しい草花と出会い、驚き、歓喜し、我を忘れて写真に収めまくった。麓の茶屋では、おいしい和菓子とそば茶をいただきながら、和気あいあいと各々がカメラに収めた草花の紹介ご自慢大会となった。……

 同好会の会員のなかに心惹かれる男性ができた。職場では決して生まれっこない感情。
 今の会社に入ってはや四年なる。異性とも同性とも浅い、表面的なつき合いしかしてこなかった。それ以上のものは望むべくもなかった。
 長い間どこかに置き忘れていた恋情だけに、本人の驚きと戸惑いは大きかった。
 相手は五歳年上の既婚者。一方的に思いを抱いているだけでも心が和んでくる。それ以上のことは望んではいない。忘れかけていたときめきを呼び覚ましてくれる有難い縁だと思っている。感謝してもいる。
 相手にも、また周りの人にも気づかれないように気を配ってはいるつもりだが、ちょっとした所作に思いがだだ洩れになってしまっているんじゃないかと不安にかられてどぎまぎしている……。
 ところが「創作日記」には、こうある。
 好きな人ができた。学生時代以来の、久しぶりの恋心だ。
 三つ上の離婚歴のある男性で、デビュー仕立ての頃の若きブラッド・ピットにちょっと似のイケメンだ。ふとした瞬間に目が合った。柔らかい微笑みに心を奪われ、時が止まったように思えた。
 一人でいるとき油断していると彼のことを頭に思い描いて惚けている自分がいた。彼と交わした数少ない言葉を思い返すことで至福がもたらされる。とても心穏やかになり、すべてが満たされていくように思える。 

 また別の日の記述。
 奇蹟が起こる。翌月の活動スケジュールの打ち合わせの帰りだった。
 彼から声をかけられたのだ。
「宇波さんは西武線でしたよね」
「はい」
「僕も同じなんです。ご一緒してもいいですか?」
 彼の最寄り駅は私よりひとつ先の駅。
 帰途で交わした会話の内容はあたり障りのないごくごく平凡なことばかりだったが、私は終始ふわふわしていてなにを話したのかよく憶えていない。
 だけど別れ際に彼が口にした言葉だけは克明に憶えている。深く心に突き刺さる言葉だったから。
「おかげで今夜はとても癒されました。ありがとうございました」

        *

 かつてネットに公開した掌編の一節を思い出した。
 
「小説って……」
 逡巡していると、ふっと頭をよぎる。
「何者にもなれる。なんだってできる。フィクションなんだから。
 金持ちになる。金持ってないから (俗っぽい)。 
 カッコよくて、モテル男になる。カッコよくもなく、モテもしないから。
 喝采を浴びたい (ん?)」
 ないものねだり……、お慰み。
 いや、いや、ちがう、ちがう。勘違いしてはいけない。
 本当に、本当に、心の奥底から、やむにやまれず表出され、出現してこざるを得ない物語というものがある。物語ることによってしか救われない魂がある。

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