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福田翁随想録(8)

 「尊厳死」私論

 知人を見舞った時のことである。
 冷静でしかも豪快な性格で、人品が評価されている人だった。
 末期がんの様相とは、断末魔の苦しみとは、かくの如きものなのかと、まともに面を向けていられない暴れようだった。
 昭和三十年代だったが、医療設備の整った大病院でさえ、患者の命を縮めてまで強力な鎮痛剤を投与することをためらう傾向があった。誰もが終末は激痛に耐えなくてはならないのかと暗澹たる気持ちになったものである。
 人間の終幕の悲惨なあり様を見過ごしてはいけないとする、いわゆる安楽死運動が起こったのは英国からで、協会発足は1935年(昭和十年)であった。
 アメリカでは1967年に安楽死教育基金財団が設置され、これが反響を呼んで、73年にオランダ、スウェーデン、オーストラリアなどに広がりを見せ、わが国では太田典礼(おおた・てんれい)氏の提唱で、76年一月安楽死協会が発足し、83年八月に日本尊厳死協会と改称されて今日に至っている。
 協会が発足して間もない頃に東京・神田の小さなビルを尋ねたが、惜しいことに太田氏とは一足違いでお会いすることができなかった。当時の賛同者は三千人にも満たなかった。
 今日の登録者数は九万人近くになっている(平成十一年一月)。終身一人十万円(夫婦二人十五万円)、年会費三千円(二人四千円)である。
 私は協会に入会していないが、家族には遺言書を、主治医には下記のような「生者の意思」書を提出している。  
 協会名称を「尊厳死」と、かつての「安楽死」から変えるに至ったのは、それだけ世論が高まってきているという証左かもしれないが、臨床における実施はなかなか難しかった。
 遡ること62年十二月に、名古屋高裁で初めて安楽死の一定の判断要件・基準を示す判決が出されている。
 1 不治と見なされ死期が迫っている
 2 甚だしい苦痛
 3 処置は苦痛緩和のためになされる
 4 本人自身の承諾
 5 原則として医師が行う
 6 方法は倫理的でなければならない
 要件が示されたとはいえ、医療の現場ではいろいろなケースがあって、その後、医療刑事事件が何度か起こったりして、いかに難しいかを物語っている。
 ことに本人の承諾といっても、これが不可能な場合があるだろう。
 家族にしては見るに見かねる、しかし医者に安楽死は口に出せない。医者は医者で進んで刑法に抵触することは控えたい。患者が尊厳死を希望していることを話していたとしても、それは単に私的な発言でしかない。
 こうなったら阿吽(あうん)の呼吸で医者は神の前に立つ敬虔な気持ちになって決断するより途はないし、家族としてはそれを期待したい。  
 医者の権限は強大である。どんな練達の看護師でも医師の資格を取得するにはそれなりの研修段階を経なければならない。
 法曹関係では、一般公務員に限って考査によって副検事の資格を与えられるが、医師の場合はそのような制度はなく、絶対不可侵である。したがって人が生死の関頭に立たされた時の処置判断は、医師にしかないのである。
 さて、私の場合、腸閉そくや胃潰瘍で入院した時には、担当医に「生者の意思」書に署名捺印して手渡していたので気持ちの上で安心だった。
 万一植物人間にならないともかぎらない。その時には正常な意識はなくなっている。前もって意思表示しておくのが「心構え」というものではないだろうか。植物人間になってまで無理に長生きしようとは思わない。
 さらに考えることだが、臓器移植してまで生き長らえようとも思わない。ただ、もし家族のなかに臓器を提供していただければ確実に助かるということがあれば、私はいただける方に奔走するかもしれない。いうなれば総論反対、各論賛成で、私自ら信念のなさを認めている次第だ。

 生者の意思
 本書は私自身が健全な精神を持ち、完全に能力がある時に書いたものであります。もしも私が意識を失ったり、頭がぼけ自らの運命を決せられなくなった時、本書を私の意思表明書として認めていただきたい。
 がんなどの重病で苦痛が激しい時、これを軽くするため十分の処置を行い、そのための副作用があっても厭いません。
 次のような場合延命治療は中止して下さい。
 1 回復不能の意識不明
 2 六か月以上の意識不明
 3 原状回復の出来ない精神的無能力
 4 不治の病気で苦痛烈しく死期が近い場合
 本書は私を思ってくれる妻子をはじめ親族および医師の誠実を信頼して書きました。
 本書は私が撤回しない限り効力を持ち続けますが、私はいつでも撤回することが出来るものと致します。

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