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夢中にさせるもの

 釣りは、男が淋しさなしに孤独でいることができる、地上に残されたわずかな場所のひとつだ。
             (ロバート・トレヴァー/イギリスの政治家)

 波が砂浜に絶え間なくうち寄せている。
 引いては一瞬止まり、うち寄せる。また引いて止まってうち寄せる。
 その波音を聴いていると生き物の呼吸のように思えてくる。おかげで無常心や虚無感を引き寄せてはこない。
 釣りをしている老人が一人いる。白の長袖シャツにまだらに色が抜け落ちてきている暗色の長ズボン。クーラーボックスに腰を下ろし、仕掛けの針に餌をつけている。遠目にも手の甲がかなり日焼けしているのが見てとれた。
 坐ったまま竹刀を振るうように振りかぶるとすっと振り降ろされ、仕掛けが海に向かって飛んでいく。十四、五メートルほど先に小さな水しぶきがあがる。糸ふけをとるとすぐにアタリがあり、老人は素早くアワセるとリールを巻き始めた。三本針仕掛けの一番下の針に一匹の型のいい十四、五センチの白ギスがかかっていた。
 海水温も上がり、これからますますキスは産卵のために砂浜に近づいてくる。それほど遠投せずともよいことを老人は知っている。アタリのあったほぼ同じところに仕掛けを打ち込んでいる。経験から培われた竿を振るう力加減のなせる技だ。
 またすぐにアタリがあり老人はすっとアワセると巻き始める。今度は二匹かかっていた。地合いのようだ。
 沖合に目を移すと、空と水平線の境目をタンカーらしい大型船がゆっくり移動している。惚けたように眺めていると没して見えなくなった。
 陽は高く昇ってきていた。先ほどまで吹きつけてくる潮風のおかげで肌寒さすら覚えていたのに、日差しの熱が勝ってきて心地よさを通り越して暑くなってきた。砂浜に日陰はなく、あまねく降りそそぎ、陽炎こそ立っていないが、目を細めなければ見やっていられないほどの照度だ。
「人の純粋な思いをゴミ箱に投げ捨てるようなマネをしないでほしい……」

 いつやってきたのか、反対側の砂浜でライフジャケット姿の若者がルアーを投げている。ポイントを変えながら徐々にこちらに近づいてくる。
「アタリはありますか?」
 背後を無言で通り過ぎようとする彼に声をかけた。
「全然です」
 投げつけるようなぞんざいな口調にさぞかし不機嫌な仏頂面しているのだろうと窺うと、意外や満面の笑みを湛えている。キャップとサングラスのせいで年若い者と思っていたが、かなりの年配だった。
「昨夏はマゴチがよく食ってきたのに、今年はさっぱりで」
 男は立ち止まって答えてくれた。
「マゴチですか?」
「四、五十センチの」
「ヒラメとかは?」
「ヒラメね。ソゲすら掛かったことがないです、ここでは。エイとかダツとか、エソとかで」
「………………」
「あとサゴシ。間もなくサゴシのシーズンかな」
「サゴシ?」
「サワラの幼魚」
「ああ……」
 そこで話が途切れ、無言のまま彼はヨットハーバーの方へ向かって歩き始めた。
 ハーバーの一角にジュニア向けのヨットスクールクラブがあり、土日には一人乗りの教練用の小型ヨットが十数艇白い帆を張って繰り出している。今日は平日なので一艇も出ていない。
「人の純粋な思いをゴミ箱に」
 ――あれは偽らざる彼女の心底から出た言葉に違いない。
「捨てるようなマネを……」
 ――捨てたりなんかしていない。君のことを、君の将来のことを慮った末に出した苦渋の結論だったんだよ。
「そんなことはちっとも理由になんてなってない。無垢な心を踏みにじったのよ」
 ――もう詰るのは止めてくれ、頼むから。 
「そんなわからず屋の心なんか、いっそ潰れてしまえばいい」

 ――なにか夢中にさせるものを見つけなければならない。見つけだせない限りこの孤独地獄から抜け出すことはできないだろう。

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