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老先生の奇行話

「あの痩せぎすのお年寄りのことかな?」
 店主婦人はテーブルを拭く手を止めて、小奇麗に束ねた髪にちょっと手をやって思い返すような目つきで答えてくれた。
「あなたがいま坐ってる所に坐って、じっとあたしのこと見てるのよ。最初はその視線が邪魔臭くて、邪魔臭くて。だってそう思うでしょ、誰だって。知らない年寄りがずっと目で追ってくんだから、無遠慮に」
 ――先生がやりそうなことだ。
 その場の様子が目に見えるようで、道雄はなんだか嬉しくなった。
 ――夢中になると遠慮会釈なしのところがあった。
 その場に居合わせていればと素直に思った。
 婦人はテーブル席に腰を下ろした。なぜ訊ねられたのかについては触れてこなかった。
「最初は気がつかないふりしてたのよ。年寄りの他愛ない好奇心と思ってね。子どもとおんなじで、他の人がどう思おうとお構いなしにじっと見てくる」
 懐かしい感情がこみ上げてきて思わず笑みがこぼれた。
「迷惑でしたか?」
「しつこかったからね、さすがに」
「注意したんですか?」
「いいえ、しない。どんな反応返ってくるかわかんないもの。怖いわよ」
 同意を求めるような目つきで言葉を継いだ。
「関わりたくないし、厄介なことになっても困るし」
「それからどうなったんですか?」
「小一時間経った頃、ふいと店を出てった」
「そうですか……。なんか思いついたんですかね?」
「さあ? 分かんないけど」
 いろいろ想像していると、彼女がおもむろに口を開いた。
「それからなのよね、気色悪いのは」
 彼女の話はまだ終わっていなかった。
「しばらくして、また戻ってきたの」
「えっ?」
「あたしも、なんでまた戻ってきたんだろうって、目で追っちゃったわよ」
 可笑しさに堪えきれなくなったのか、テーブルを軽く叩いて微笑んだ。
「目が合うと、手招きするのよ。ふっふふ」
 そう言うと、今度は声を出して笑った。
「なんだったんですか?」
 早く先が聞きたくて道雄は前のめりになった。
「今度うちに来てくれないか、ですって」
「えっ、ナンパですか?」
 道雄は意外過ぎて大笑いした。
「あたしも驚いちゃって、ひっくり返りそうになったわよ」

 ――さて、これからどうする?
 また、悪い癖が出てきた。
 ――お年寄り、道雄の先生、先生が目で追うくらいの興味対象……
 無理くりにここで老先生の話を紡いでしまわないで、謎解きの愉しみを先延ばししようかと考えていた。
 嘘つけ! これって、独りよがり? 不誠実? 
 ここからのストーリーの独自性を獲得することがちょっと難しいと感じたからじゃないのか。新しい工夫など思い浮かんでこないんじゃないかと見限り始めたからじゃないのか。
 こんな苦し紛れの逃げ口上がすぐ頭を擡げてきてしまうのは、興ざめて先へ進めなくなってしまわないための姑息な常套手段だからじゃないのか。 
「ここは開き直ってとことん捻じ曲がってやれ」という危ない誘惑の囁きが……。
 いけない、いけない。そんなことをしたら何もかもぶち壊しになってしまう。
 仕切り直し、仕切り直し。
 この話で重要なのは、素直なその動機だ、先生の……。

「で、どう答えたんですか?」
「黙ってたら、家じゃなくどっか別な場所でもいいから時間を取ってくれませんかって」
 婦人は当然断ったんだろうなと道雄は想った。
「懇願されたということもあるんだけど、ちょっと理由が知りたいじゃないの。乙女心もでてきちゃって」
 腰を捩じらせ、口を押えて大笑いした。
「見せたいものがある、ぜひ見てもらいたい、ですって」
「OKしたんですか?」
 彼女の先生への印象がその時変わったんだなと道雄は直感した。
「まあね。見るくらいならと」
「………………」
「その翌々日だったかな、朝早く、あたしが仕込みしてるところに風呂敷包みを持ってお越しになった」
「なんだったんですか、見せたいものって?」
「アルバム。奥さんの若い頃の写真」
「奥さん?」
 道雄は存じ上げてなかった。先生と出会った時にはすでに故人になられていた。先生が教授になられるずっと前に早逝されたと聞いていた。
「奥さんの写真だけなんですか?」
「そう」
 なんどもお宅に伺って書類や書籍の整理を手伝ったことがあったけれど、そんなアルバムが保管されていたとは全く知らなかった。
「きれいな方でね、また写真が素晴らしかった。玄関前、家の中、お庭、銀座なのかな? 街角、海や山などの観光地で撮られた写真がきちんと貼られてた」
 ――その写真を先生はどうして見てもらいたいと思ったんだろう?
「きれいな方ですねって言ったら、びっくり」
「えっ?」
「似てませんか?」
「もしかしたら……」
「そう」
「奥さんに似てるってことだったんですか?」 
「そうだったのよ」
「そんなに似てたんですか?」
「よくは分からなかったけど、似てるって言われれば似てなくもないかなって。でもね、写真に写っている人はひと回りもふた回りも若いんだから……」
「うーん」
「まあ、喜んでいい話だったんだろうけども」

 道雄は帰途、先生の亡夫人への愛情の深さを想いやると目頭が熱くなった。
 米寿のお祝いからそう日を経ない先月の六日、自宅で心不全の発作を起こし夫人との思い出の品々に囲まれてひっそり亡くなっていた。
 つい先だって道雄が先生の書斎を整理していたところ、机の上に置かれた黒漆金蒔絵の文箱の中から一枚のメモ書きが出てきた。「奇跡のような遭遇。我が晩年に射し来る光明」と太字で書かれていた。その余白に蛯名海岸海鮮処の店名と住所が書き添えられていた。 

 道雄は先生が知る人ぞ知る考古学の大家であったこと、先月亡くなったばかりであることを明かした。訪ねてきた理由については触れなかった。
「あらま、そんな大先生だったの。それは大変失礼な振舞いを」
 婦人は大層驚いて、しばらく黙りこくっていた。
「これからもちょくちょく来て構わないかな?」
 アルバムを風呂敷に包みながら縋るような切ない表情で頼まれたという。彼女は軽く受け止め快諾したそうだが、先生はその後一度も姿を見せなかった。
「初めてここで会った時の、あの時の視線が、いまでも頭から離れないのよ」
 道雄がお暇しようと腰を上げかけた時、婦人は日本海に面した延びゆく海岸線を見やりながら心の内を明かしてくれた。
「もっと優しくしといてあげれば良かった」

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