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「エコ」なき時代の環境思想とその行方――エコロジー、人新世、ポストヒューマンが映し出す「地球1個分」問題と「脱生体化」問題について――(抄・解説)

 以前、ある一般紙に依頼されて久々に環境関連の原稿を書きましたが、今回はそれを発展させて、本格的な学術論文を『環境思想・教育研究』の第16号(2023、pp.81-91)に執筆しました。

(※現在は、本文の末に注を除く本文と参考文献のみ転載し、正式な転載許可が出た時点で全文公開とします)



 まずこの論文で筆者が言語化したかったのは、気候変動をはじめとした現実的な問題は歴然として存在するにもかかわらず、それを語るための思想が欠落しているように見えること、あるいは環境問題を思想として語ること自体が、どこか完全に行き詰まっているように見えるという感覚についてです。

 ”哲学”の論文として書いていることもあり、一般の方が読んでも、なかなか意味が伝わらないかと思いますので、以下4つのポイントから補助線となるような解説文を記しておきたいと思います。

○解説①:「思想なき環境の時代」について

 まず、本論では「思想なき環境の時代」という表現をしていますが、本論の前提となるのは、かつて環境について語ることは、思想を語ることと密接に関係があった、ということです。

 つまり環境について語ることは、単に個別具体的な問題を解決するということにとどまらず、ひとつひとつの実践が、”いまの社会”、”いまの世界”とは異なる、もうひとつの社会を築いていくためのひとつのステップである、というニュアンスを含んでいた、ということでです。

 環境に配慮すること、例えばわざわざ環境負荷の少ない商品を選んだり、細かい分別作業に気を遣ったりするというのは、とても大変なことであるはずです。しかし、一見そうした微力で地味に見える作業であっても無駄ではない。それは最終的には、環境問題を生みだしてしまう現在の社会とは本質的に異なり、環境問題を生みだすことのないもうひとつの社会を実現するための確かな一歩につながっていると、かつては思えたということです。

 端的に言えばこれが、「環境について語ること」が同時に(あるべき社会やあるべき世界を考え、志すという意味において)「思想について語る」ということでもあった、ということです。

 しかしこうしたニュアンスは、環境の言説のなかでは完全に失われていると感じます。

 もちろん私たちは、いまでもカーボンニュートラルについて語り、プラスチック問題について語っているでしょう。それは未来社会について語ることではないのでしょうか。しかし、ここにはやはり大きな隔たりがあるのです。というのも、今日の言説は、もうひとつの社会について語っているように見えて、実際には、気候変動やマイクロプラスチックといった具体的な問題解決以上の意味を含んでいないからです。

 別の言い方をすれば、今日の環境言説は、問題解決それ自体が目的となっている、と言い換えることができます。つまり、何か核心的な技術が登場するなどして、目に見える問題を除去することさえできれば、個別的な問題を引き起こしている共通の根というものには関心が払われない、問題の背後にある、私たちの生き方や社会構造や世界観について問う必要はないと考えられているからです。

 気候変動であれば、気候が変動することが問題なのであり、例えばCO2貯留技術などが大成功を収めるなどして、仮に気候が変動しないのであれば、現在の化石燃料に依存した社会構造について考える必要はない、プラスチック問題であれば、例えば代替プラスチックが発明されるなどして、仮にマイクロプラスチックという問題が除去されるのであれば、現在の消費生活について考える必要なくなる、と想像されているいうことです。

 とはいえこのように言うと、次のように感じる方がいるのではないでしょうか。いや、それの何が問題なのか、というようにです。

 筆者は、このように感じる方が意外と多いのではないかと思っています。そしてこの感覚こそが、実は本論で、環境に思想は必要ない、「思想なき環境の時代」というものに人々は何ら不都合を感じていない、と述べていることの真意なのです。

なぜなら「思想なき環境の時代」において、多くの人々は、現実問題としてそこに何ら不都合を感じていないということ、より端的に述べれば、環境危機と対峙するにあたって、そもそも思想など必要ないというのが、この時代における本当のトレンドだからである。

上柿崇英(2023c)「「エコ」なき時代の環境思想とその行方――エコロジー、人新世、ポストヒューマンが映し出す「地球1個分」問題と「脱生体化」問題について」『環境思想・教育研究』環境思想・教育研究会、vol.16、p.81

○解説②:「地球1個分問題」と人間の未来について

 環境について語ることは、あくまで気候変動やマイクロプラスチックといった問題が存在するためで、それ以上でも以下でもない。仮に気候が変動しなくなり、プラスチックがマイクロプラスチックを生みださないとするなら、何も問題はないのではないか。

 本論では、この主張に異議を提示します。そしてその理由は、気候変動だろうと、マイクロプラスチックだろうと、一連の問題は、より根本的な問題から派生した末端の問題に過ぎないこと、仮にそれらが除去されたとしても、それらの背景にあるより根本的な問題は未解決のままであるからだと主張します。

 その根本的な問題とは何でしょうか。本論では、そのことを「地球1個分」問題と呼んでいます。「地球1個分」問題とは、私たちの社会がすでに「地球1個分」の容量を超過している可能性が高いということ、またそのことを受けて、この先私たちは、その容量に収まる社会を目指すのか、あるいはその容量の限界を超越していく社会を目指すのかという問題です。

 ホモ・サピエンスは、自然環境のうえに人為的にもうひとつの環境をつくりだすことができる特殊な能力を備えています。それを社会環境と呼ぶとするなら、私たち人類は、常に自然環境と、人為的に創出された社会環境という二重の環境のなかで生きていく生物だと言えるでしょう。

 問題は、人類の創出する人為的な社会環境は、世代を追うごとに蓄積され、膨張し、とりわけ化石燃料文明が成立して以降、幾何級数的な成長を遂げてきた結果、「地球1個分」の容量を超えてしまった可能性が高いということなのです。気候変動も、マイクロプラスチックも、この根本問題が形を変えて現れてきたものだと理解できるのです。

 ここで私たちに残されている道は、究極的に言えば、1)膨張を続ける社会構造を変革して、人類が「地球1個分」のなかで生きていける社会を目指していくのか、あるいは2)地球そのものを人類の足枷と見なして、技術の力で克服し、人類を地球に制限されない存在としてバージョンアップさせていく道を目指すのか、という2択しかありません。

 そのどちらを目指すのか、これはきわめて思想的な問題だと言えるでしょう。つまり環境について語ることは、「地球1個分」問題が未解決である以上、本来であれば必然的に、私たちがいかなる社会を目指すべきなのかという、思想的なニュアンスを含まざるをえないはずなのです。ところがこの視点が、現在の環境言説からは欠落しており、多くの人々はそのことに疑問さえ抱いていない。このことこそが問題の核心であると理解するのです。

 ちなみに筆者は、この問題を論じるにあたって、1)「地球1個分」に収まる社会を目指すグループを脱成長主義、2)「地球1個分」の限界を超越していく社会を目指すグループを環境加速主義(この用語は筆者の造語で本論には出てきませんが、今後はこの用語を使って表現していこうと思っています)という形で整理できると思っています。

 そして筆者の見立てにおいては、思想的には脱成長主義が敗北し、環境加速主義が勝利すると考えています

 脱成長主義は、なぜ敗北するのでしょうか。脱成長主義の弱点について、それを批判する人々はたいてい際限のない人間の欲望や、資本主義の温存について語ります。しかし本論では、そのどちらにでもなく、根本的には人々がそれ(脱成長主義が想定するもうひとつの社会)を望んでいないからだというところに求めます。

 とはいえ脱成長には未解決の問題がある。それは脱成長が目指す社会とは、つまるところバイオリージョンに根ざした自律的でローカルな共同体主義であり、それは結局エコロジー思想が目指したものと変わらないからである(23)。つまり脱成長を支えるライフスタイルは、想像している分には素晴らしいが、いざ実践するには多大な困難を乗り越える必要があること、また大多数の人々にとっては、現実問題として、そのような生活を必ずしも望んでいないという、エコロジー思想が行き詰まったのと同じ問題を抱えているということなのである(24)。

上柿崇英(2023c)「「エコ」なき時代の環境思想とその行方――エコロジー、人新世、ポストヒューマンが映し出す「地球1個分」問題と「脱生体化」問題について」『環境思想・教育研究』環境思想・教育研究会、vol.16、p.86

 脱成長を実現させるためには、人々は否が応でも生活の一部を生身の相互扶助によって実現することが求められます。「助け合い」と聞けばイメージは良いでしょうが、そのような密な人間関係を基盤に生きていく世界を現代人は望んでいないし、それを十全に達成していく能力においても不足しているということです。

 このことはあまり指摘されてはいないのですが、筆者は最も根源的な問題のひとつであると考えており、遡れば、それがかつてエコロジー思想が敗北した原因のひとつであったとも考えています。

 イメージで例えるなら、「コンビニのおにぎり」で成立する世界と「手作りのおにぎり」で成立する世界があるとして、人々はどちらの世界を望むのか。人々は想像している分には「手作りのおにぎり」の素晴らしさを語るでしょうが、「コンビニのおにぎり」の安心感と気楽さを知ってしまった以上、実際問題となると、「手作りのおにぎり」を食べ合う世界に耐えられず、「コンビニのおにぎり」で成立する世界を選択するということです。

 では、環境加速主義が手放しで良いのかというと、これはこれでしっかりと考えなければなりません。

 まず、そもそも環境加速主義が”成功”するのかどうか、つまり人類が科学技術を使って地球という足枷から本当に解放されるかどうか、このことには何の確証もないということがあげられます。環境加速主義を信じて邁進した結果、結局は破滅の未来が待っていたということは十分に考えられれるからです。

 他方で、仮に環境加速主義が成功した場合についても、その先に待っている未来が、本当に(現在の私たちから見て)素晴らしいものであるかどうかということについて、しっかりと考えておく必要があるでしょう。

 この点については、本論ではかなりの紙面を割いて論じています。具体的には、ジオエンジニアリングポストヒューマンメタバース「思念体」といった観点(「脱生体」問題)と絡めながら、「カプセル社会」「脳人間」といったキーワードを用いて、いくつかの思考実験を試みていますので、興味のある方は本論を覗いてみてください。

○解説③:SDGsや持続可能性概念は、なぜ環境思想とは呼べないのか

 ところで、環境問題に関心がある方々は、ここまで読むあいだにひとつの疑問を抱いていたかもしれません。それは、本論が現代を「思想なき環境の時代」と断言する一方で、これまでの説明のなかでSDGsや持続可能性概念について触れた箇所がないからです。

 SDGsや持続可能性概念は、それに馴染んだ方々から見れば、私たちが未来社会を語るための大切な拠り所であり、その意味においてひとつの環境思想であると感じる方々がいるのではないかと思います。

 しかし本論では、SDGsや持続可能性概念を環境思想とは呼べないという立場に立っています(SDGsや持続可能性概念に含まれる矛盾や問題については、本論の土台となった別の原稿「持続可能性は何を持続させるのか」の方が詳しく説明されていますので、こちらもご参照ください)。

 というのもSDGsは、結局のところ現代のポリティカルコレクトネス、つまり社会通念として強制力を伴う事項を単純に寄せ集めただけのスローガンに近く、そこで語られている持続可能性概念を掘り下げていくと、つまるところは、現在の私たちの経済的な繁栄、生活様式の発展を持続させるということ以上の思想的な深みを備えていないからです。

 もちろんSDGsに掲げられている目標は、どれも必要なことであることには変わりません。「誰ひとり取り残さない」、そのこと自体に異論はありません。しかしそこで語られているのは、例えば私たちが個人として、あるいは組織として何らかの行動を取る際に、それがジェンダーや格差、マイノリティに配慮したものとなっているのか、それと同程度の意味において、環境に配慮したものとなっているのか、一度立ち止まって考えてみようということでしかありません。

 経済成長はもちろん大事ですが、貧困や格差の解消も大事、環境保護も頑張ろう、「全部大事だね」というのが、SDGsや持続可能性概念が現在表象しているメッセージです。

 これまでの議論を見てきた方なら気がつくでしょう。ここで言っている「環境保護」というのは、気候変動を含め、環境という主題を個別的な問題解決の次元でのみ捉えたものに過ぎません。つまり目に見える問題を除去することさえできればそれでよいのであって、個々の問題を引き起こしているより本質的な問題についての視点は欠落しているということです。

 その意味においては、一連の概念こそが、むしろ「思想なき環境の時代」を体現しているとも言えるでしょう。それどころか、「地球1個分」問題を想起するのであれば、SDGsや持続可能性概念は、思想的には環境加速主義のグループに属するとも言えるのです。

 そもそもSDGsや持続可能性概念は、思想として捉えるなら、その中核にあるのは、「いかなる人間も政治的、社会的に自由であり、また繁栄の果実が平等に行き渡るべきだ」とするリベラリズムだと理解する方が適切です。ここでは環境問題は、リベラルな世界の理想を実現する過程のなかで立ち塞がっている阻害要因の一つでしかないわけです。

 実際、SDGsや持続可能性概念が想定している理想社会とは、現在の生活様式や社会構造や世界観を本質的には保持したまま、80億人の「誰ひとり取り残さず」、全人類が最富裕国水準の生活が送れることに他なりません。

 ところが「地球1個分」問題が示唆していたのは、80億人にこれほど多くの格差が内包した状態でさえ、すでに私たちは「地球1個分」の容量を超えてしまった可能性があるということでした。

 ならばSDGsや持続可能性概念の理想を実現するためには、私たちに残されているのは、地球そのものを人類の足枷と見なして、技術の力で克服し、人類を地球に制限されない存在としてバージョンアップさせていく、環境加速主義以外にありえません。

 ここで改めて主張しますが、筆者は思想的には脱成長主義が敗北し、環境加速主義が勝利すると見立てています。私たちはこのことの意味をよくよく考えておく必要があるのです。

ここからわれわれが読み取れることは、持続可能性の言う“持続(sustain)”とは、環境対策にリソースを割きつつも、最富裕国を含めた全世界で可能な限りの経済成長を持続させ、途上国の人々を富裕国並みの生活水準に引き上げていくこと、端的に言えば“いま”を持続させることでしかないということである(14)。

上柿崇英(2023c)「「エコ」なき時代の環境思想とその行方――エコロジー、人新世、ポストヒューマンが映し出す「地球1個分」問題と「脱生体化」問題について」『環境思想・教育研究』環境思想・教育研究会、vol.16、p.85

○解説④:学問としての環境思想の存在意義について

 最後の論点となるのは、こうした環境言説の現状にあって、学問としての環境思想は何をしてきたのか、という問題についてです。

 まず、本論で言及している「環境プラグマティズム」というのは、1990年代に英語圏で提唱されたもので、端的に言うと、学術としての環境思想は、「自然に内在的な価値はあるのか」「人間中心ではない(自然中心、生命中心、生態系中心)倫理原則は成立しうるのか」といった抽象的な論争を棚上げして、現場の科学者や政策立案者に直接的な影響を与えられうる、実用的なアプローチを採用すべきだという考え方です。

 実際にはもう少し複雑なのですが、少なくともこの思想が日本に紹介された2000年代には、筆者を含め、こうした側面こそがこの思想の革新性であると受け止められていたと理解しています。

 当時はエコロジー思想の影響力が残存しており、環境問題の元凶は、人間が自然や生命を自らの発展のための道具として捉えてきたことにあるとの主張が広く共有されていました。そのため「人間のため」ではない、「自然のため」「生命のため」「生態系のため」になされることが、「人間のため」になされることに勝りうる可能性をいかにして理論的に証明することができるのか、ということが学術的にも重大な問題でした。

 ところがこうした抽象的な論争を繰り返したところで、個別的な問題は悪化するのみで解決するわけではない、むしろ問題解決に寄与できるような環境思想(とりわけ環境倫理学において)があるはずだ、というのが「環境プラグマティズム」の出発点だったわけです。

 こうした主張は、「人間のため」か「自然のためか」といった極端な二元論に疲弊していた2000年代の環境思想の学界に対して、良い意味で刺激を与えました。特に日本の環境思想の学界では、環境社会学を掲げるグループによってフィードワークに基づいた環境倫理論が独自に発達しており、「環境プラグマティズム」はそうした土壌にもよくマッチしていたと言えるでしょう。

 こうした背景により、日本における「環境プラグマティズム」は、哲学者や倫理学者が現場に入り、現場の知を集め、市民を巻き込んだステークホルダーの合意形成に寄与していくアプローチとして受容された、というのが筆者の理解です。

 もちろん、こうした試みが市民社会に貢献したことは間違いありません(このことは、筆者がよく知る吉永明弘先生の業績からも明かです)。しかし筆者は、現場の実践は、もともと実証主義的な方法論を磨きあげてきた社会科学が得意とするところであって、人文科学であるところの哲学や倫理学には、人文科学ならではのやるべきことがほかにあるのではないか、という思いが消えませんでした。

 そしてそれから15年あまり後の2019年になって、「環境プラグマティズム」の代表的な著作が訳出されました。もちろん岡本祐一朗先生や田中明弘先生をはじめとした同書の翻訳本は、筆者のような研究者には大変ありがたいものでした。しかし気になったのは、先生があとがきで書いておられた以下の点です。

 「残念なことに、日本の場合その名前すら知られていないのである。(「環境プラグマティズム?何それ?」)ハッキリ言って、日本では「環境」に対する考え方が、50年前からほとんど進んでおらず、しかもその自覚さえないのである。比喩的に言えば、二週遅れて走っているのに、その遅れに気づかず走っているようなものだ。」

A・ライト/E・カッツ『哲学は環境問題に使えるのか――環境プラグマティズムの挑戦』岡本裕朗/田中朋弘監訳、慶應義塾大学出版会、2019年、p. 419

 筆者はこの一文を読んで驚きました。筆者が院生時代を過ごした2000年代から20年あまりの間でさえ、筆者の肌感覚では環境に対する人々の捉え方は大きく様変わりしたからです。

 例えばいま現在において、環境問題について語る際、それが「人間のため」なのか「自然のため」なのか、などといった問題にこだわっている人など、どれだけいるのでしょうか。筆者の認識では、時代は「プラグマティズム」どころではなく、さらにその先を行っているのです。

 これまで見てきたように、今日の環境言説において最も強力な主流派と言えるのは、環境加速主義にほかなりません。問題解決や実用的なアプローチが重要であることは当然として、それ以上に科学技術を用いて「地球1個分」問題を克服すること、人類全体のバージョンアップを通じて、経済的な成長と発展を際限なく持続させること、これこそが環境言説の中心に位置づくだろうものだからです。

 環境加速主義が既定路線となった世界において、環境問題は、どうすれば技術的に解決できるようになるのかという尺度のみによって測られるのであって、問題が生じること自体の意味は不問とされます。そこでは自然科学者は問題の除去可能性について追求し、社会科学者は技術の社会への適用可能性について追求します。そうなると、哲学や倫理学といった人文科学の居場所はどこにもありません。それでも多くの人たちは何ら不都合を感じることはないでしょう。

 おそらく私たちは、すでにそうした世界を生き始めているのかもしれません。「思想なき環境の時代」は、そのことを象徴しています。環境思想に存在意義があるとするなら、こうした現状認識から始めなければならないでしょう。本論で主張しているのは、こうしたことなのです。


「エコ」なき時代の環境思想とその行方――エコロジー、人新世、ポストヒューマンが映し出す「地球1個分」問題と「脱生体化」問題について――(抄)※注を除く本文と参考文献のみ転載※

1.はじめに

 環境思想は、現在新しい転機を迎えている。そのことを物語るのは、「持続可能な開発目標」(SDGs)を中心に環境言説が再び賑いを見せているにもかかわらず、そこにはそれを支える思想としての軸が欠落して見えることである。

 かつて環境言説は、きわめて思想的な側面を備えていた。そこではエコロジー思想――環境危機の根源にあるものを人間中心主義と理解し、その克服のためには、人類が自然世界の秩序を尊重し、その一部分として分相応な生き方を目指すべきだとする――が強い影響力を保持していたからである。しかしエコロジー思想は故あって衰退した。それ以来われわれは、「思想なき環境の時代」を迎えることになったのである。

 こうした時代において、環境思想には何が求められるのだろうか。かつて環境プラグマティズムは、環境倫理の学説が科学者や政策立案者に届かなかったことへの反省として、現場に寄り添う実用的なアプローチが必要であると主張した(1)。しかし事態はよりいっそう深刻だとは言えないか。

 例えば近年、環境思想の周辺では“人新世”のタームが流行し、“脱成長”が再び注目されている。しかしそうした試みは、またもや肩透かしに終わる可能性が高い。

 なぜなら「思想なき環境の時代」において、多くの人々は、現実問題としてそこに何ら不都合を感じていないということ、より端的に述べれば、環境危機と対峙するにあたって、そもそも思想など必要ないというのが、この時代における本当のトレンドだからである。

 以上の問題意識を受けて、本論ではまず、「思想なき環境の時代」が成立してくる経緯について考察する。具体的には、そもそも環境思想とは何かという問いから出発し、環境主義とエコロジー思想の違い、そしてエコロジー思想が衰退した原因について分析したうえで、なぜ今日の持続可能性概念やSDGsが環境思想としての潜在力を持ちあわせていないのかということについて明らかにする。

 加えて後半では、こうした「思想なき環境の時代」において、改めて環境思想として本質的な問いがどこにあるのかについて、人新世、脱成長、ジオエンジニアリング、ポストヒューマンといったキーワードを手がかりに考察していく。ここから見えてくるのは、エコロジー思想が提起した過去の問題が、「地球1個分」問題、そして「脱生体化」問題という形で未解決であるということ、加えて今日のわれわれが、「地球1個分」問題を「脱生体化」によってなし崩し的に乗り越えていこうとしているという現状である。

 もしもわれわれが、この先変わらずこの道を進んでいくというのであれば、もはや環境思想の居場所などどこにもあるまい。そこでは人為的環境による自然環境の完全な制圧こそが唯一の道標となり、その試み自体の意味を問うことなど必要ないということになるからである。環境思想が迎えた転機とは、実のところ、このように環境思想の存在意義そのものが問われるという事態なのである。

  2. 「思想なき環境の時代」の成立

 それでは、「思想なき環境の時代」がいかなる経緯で出現してきたのか、また今日の持続可能性概念やSDGsが、なぜ環境思想として不十分なのかということについて見ていこう。

(1)環境思想とは何か

 議論の出発点となるのは、そもそも環境思想とは何かということ、それはいかなる点において単なる環境言説と異なるのか、という問題である。

 このことを考えるうえで有益なのが、環境思想を政治的イデオロギーという視点から分析したドブソン(A. Dobson)の試みである。まずドブソンは、特定の言説を政治的イデオロギーと見なすためには、一般的に以下の3つの条件が必要であるとし(2)。

  1. それらは、社会についての分析的記述を提示しなければならない。

  2. それらは、人間の条件に関する信念に基づいた特定の社会形態を処方しなければならない。

  3. それらは、政治的行動のためのプログラムを提供しなければならない。

 筆者なりに換言すれば、その言説が現在の社会状態を理解するための独自の理論的、体系的な枠組みを備えていること、さらにそこからわれわれが到達すべき社会の理想状態や、その状態へと移行するための方法を明確に説明できていること、そのときその言説は、自由主義や社会主義と同様の立派な政治的イデオロギーと見なせるということである。

 ここからドブソンは、当時の環境言説のなかに、まさしくこうした条件を満たした言説が存在するとして、それをエコロジー思想(ecologism)、そうでないものを環境主義(environmentalism)として区別した(3)。

 もちろん、ドブソンの定義をそのまま環境思想の条件として持ち込むことはできないだろう。これでは、真に環境思想と呼べるものとは、ラディカルな社会変革を志向するエコロジー思想だけだということになってしまうからである。

 そこで本論では、以下のように考えることにしたい。

 まず、“環境言説(environmental discourse)”とは、環境問題について語られた何らかの言説を一般的に指すものとする(4)。これに対して“環境思想(environmental thought / philosophy)”とは、少なくともドブソンの言う第一条件、すなわち環境問題についての分析的記述、環境問題を捉える独自の理論的、体系的な枠組みを備えた環境言説という形で定義したい。

 つまり、理想的な社会状態や、そこへ至るための道筋についての説明は不十分であったとしても、環境問題に直面しているわれわれの社会について、それを既存の思想的な枠組みの延長によって捉えるのではなく、独自の思想的な枠組みを設定し、そこから分析を試みている言説である、というようにである。

(2)「環境」を問題にすることと、「エコ」を問題にすることの違い

 もっとも過去の環境思想を振り返るうえで、環境主義とエコロジー思想を区別しておくこと自体は重要である。ただしここでは、それをドブソンのように言説のラディカルさによって区別するのではなく、あくまで両者の思想的な枠組みの違いによって区別するのである。

 もともと環境主義は、60年代から70年代を中心に、まさしく環境問題という概念が創出された時代に形作られたものである(5)。その最もシンプルな問題設定とは、「明日へのための寓話」(a fable for tomorrow)が象徴するように(6)、特定の自然環境が人為的に破壊され、その自然環境に依存していた、人間を含む多くの生物種が生存の危機に直面するというものである。

 環境主義の背景には、産業化がもたらす健康被害、生態系の破壊、資源枯渇や貧困問題など、これまで個別に理解されてきた問題が、いずれも共通の根を持つものであるという認識がある。つまりそのいずれもが、文明社会が物質的な豊かさを追い求めた代償として、まさしく人類自身の生存に関わる環境劣化の問題という形で跳ね返ってきたものであるとの思想的な含意があるのである。

 これに対してエコロジー思想は、80年代から90年代を中心として、環境主義に19世紀以来の自然保護思想が結びつくことによって成立してきた。その最もシンプルな問題設定とは、「山の身になって考える」(thinking like a mountain)が象徴するように(7)、特定の生態系のバランスが人為によって破壊され、その生態系を構成している、人間を含む多くの生物種や土壌などの無機的環境が深刻な問題に直面するというものである。

 そしてそこにある思想的核心とは、環境危機の根源を人間中心主義(anthropocentrism)――自然世界を機械論的に認識し、それを人類のための道具とのみ見なす世界観――に求めること、また環境危機を真に克服するめには、人類が自然世界の秩序を尊重し、その一部分として分相応に生きていくような新しい文明の形が必要であると主張するところにある(8)。

 両者の違いは、まず科学技術への向きあい方として現れてくる。例えば環境主義は、科学技術への過信を戒めるとはいえ、科学技術が問題解決にあたって有用であり、かつ慎重に用いられるというのであれば、それを使用することには必ずしも消極的ではない。

 これに対してエコロジー思想は、科学技術の使用を全否定しているわけではないものの、それだけでは本質的な問題解決にはつながらないと考える。人間中心主義は、われわれの世界観や価値観に関わる問題であり、それらが深く浸透した社会システムの変革なしには、いかなる試みも小手先に終わると理解されているからである。

 しかし、両者の違いは他にもある。例えば上述した「明日へのための寓話」と「山の身になって考える」という問題設定には、突き詰めるとある種のずれが引き起こされる。環境主義の場合、問題となるのは破壊されている特定の環境であり、求められるのは、その環境に生息する生物種にとっての「最適な環境」の復元である。これに対してエコロジー思想の場合、問題となるのは破壊されている生態系の秩序であり、求められるのは、その秩序が「健全な環境」として維持されることだからである。

 もちろん、両者の目的は多くの場合は一致する。しかし環境主義が想定する「最適な環境」とは、突き詰めると限定された特定の生物種にとって快適となる環境のことを指している。環境とは、常に何ものかにとっての環境であり、例えば一般的に環境破壊とみなされる河川の富栄養化が、別の生物種にとってはむしろ環境改善を意味するように、ここでは暗に人間を含んだ特定の生物種にとっての快適な環境が想定されているのである。

 これに対してエコロジー思想が想定する「健全な環境」とは、特定の生物種を想定したものではなく、原理的に生態系を構成するすべての生物種を配慮したものとなっている。しかしながら、「健全な環境」とは、そもそも快適さを問題にした概念ではない。例えば秩序を維持するためには、増えすぎた個体は駆除されなければならないだろう。ここで焦点化されているのはあくまで全体であり、それは個々の生物種の立場から見ると、ときにはある種の残酷さを内包するものとなるのである(9)。

(3)エコロジー思想はなぜ衰退したのか

 本論がこのことを強調するのは、ここに見られる思想的なずれが、結果的にエコロジー思想が衰退していくひとつの要因になったと考えられるからである。とはいえまずは、エコロジー思想が衰退した要因として、しばしば指摘される点について振り返っておこう。

 第一に、人間中心主義の克服という枠組み自体に問題があった。繰り返すように、エコロジー思想は、人類の都合しか考慮してこなかった過去の人類の生き方や文明への反省を出発点としている。そのためそこでは、真の環境行動とは人間のためではなく、人間を超えた何ものかのためにこそ――それは自然であり、生命であり、地球によって象徴された――行われるべきものだと理解されてきた。

 ところが現実においては、どのような試みであっても一定の人間中心的な思考や行動は避けられず、大半の環境対策は、人間の利益と結びつけられてはじめて実現可能なものとなる側面があった。人々はエコロジー思想が掲げた「人間のためではない」という名分に突き動かされてきた反面、かえってその名分がもたらす矛盾に直面したのである。

 第二に、そこで求められているライフスタイルにも問題があった。エコロジー思想は人類にとって分相応となるような新たな文明の形を求めてきたが、それは典型的には、バイオリージョンに根ざした自律的でローカルな共同体主義を意味していた。そこでは人間存在に等身大の技術、自然物と直接触れあう職人的な労働、非貨幣的な相互扶助が賛美され、それらの方が、現代の都会的な生活に比べてはるかに人間らしく、精神的に豊かで、幸福をもたらすと主張された。

 しかしそうした理解は多分にロマン主義や疎外論によって脚色されたものであり、理想と現実の間には相当の乖離があった。「真に人間らしい生活」は、想像している分には素晴らしかったが、いざ実践の段階になると、高い利便性とともに個人化された生活に慣れ親しんだ人々にとっては、想像を超えた困難さが待ち受けていた。ここでも人々は、名分がもたらす矛盾に直面していたのである。

 そして第三に、罪悪感に訴えかける戦略にも限界があった。エコロジー思想は、社会の変革を正当化するために、ことさら人間の独善性を強調し、人類がいかに人間以外の存在を搾取してきたのかを訴えかけてきた。そこには罪を自覚し悔い改める態度と似て、人々の罪悪感に訴えかけ、そのことによって人々を動かそうとする傾向があった。しかしそうした戦略は長くは続かない。とりわけその変革が容易でないと分かったとき、「悪魔化」されてきた人々は、かえって心理的な反発を強める結果になったからである。

 さらにここに加わる形で、おそらく前述した環境主義とエコロジー思想の違いが、悪い形で影響を及ぼすことになった。前述したように、エコロジー思想で想定されている“良い環境”とは、あくまで生態系の秩序から見た「健全な環境」であって、それはもともと、その秩序を維持するために行使される数々の残酷さを内包したものであった。

 ところがこの「健全な環境」は、エコロジー思想が大衆化していく過程で、次第に環境主義に見られた「最適な環境」とイメージのうえで混同されていくようになった。加えてここに人間の「悪魔化」が合流したことで、あたかも人間さえ悔い改めることができれば、すべての生命が輝くバラ色の楽園が実現するかのような誤解が拡大したのである。

 ドブソンが言うように、エコロジー思想は、確かに政治的イデオロギーとしての条件をすべて満たした言説だったのかもしれない。しかしそこには、多大な脚色とイメージの混乱、そして名分と現実との間に生じた途方もない乖離が含まれていた。エコロジー思想の衰退は、やはり故あってもたらされたのである。

(4)持続可能性、SDGsは環境思想になりえるか

 では、環境主義とエコロジー思想のうち、結局は後者が滅んで、前者が生き残ったと考えても良いのだろうか。おそらく事態はもう少し複雑である。というのも実際には、環境主義が備えていた、科学技術万能主義への批判や、物質的豊かさを求め続けた文明への問いといった視点もまた、エコロジー思想とともに埋葬されてしまった側面があるからである。

 本論では先に、環境思想を、環境問題を捉える独自の理論的、体系的な枠組みを備えた言説として定義した。それに即して言うのであれば、残されたのは解決すべき個別的な問題だけであって、その意味を問題とするための思想的な枠組みについては、必ずしも受け継がれていないと言えるからである。つまり厳密に言えば、環境主義もまた、思想としては衰退したと言えるのである。

 ここでわれわれは、ようやく前半の課題、つまり環境言説において今日中心的な位置を占めている持続可能性概念やSDGsが、はたしてかつてのエコロジー思想に代わる環境思想として十分な潜在力を持ちあわせているのかという問題と向き合うことができるだろう。

 周知のように、持続可能性(sustainability)概念の起源は、「将来世代の欲求を満たしつつ、現在の世代の欲求をも満足させるような開発」を意味する「持続可能な開発」(sustainable development)概念にまで遡る(10)。そしてそこから“開発”が抜けて一般化されたものが持続可能性概念であり、ここから派生してきたものこそがSDGs(持続可能な開発目標)に他ならない。

 最初に考えたいのは、ここで言う持続可能性が、前述したドブソンの3条件に照らしてどのように分析できるのかということである。例えば今日持続可能性は、経済成長、環境保護、社会的(世代内)公正という3つの課題を同時に前進させるものとして漠然と想起される。またSDGsはそれらの課題を解決するための具体的な方策だと考えるのであれば、一見持続可能性こそが、まさしく現代の環境思想であるかのように見えるからである。

 ところが実際には、すでに「持続可能な開発」の段階から、その概念に根本的な矛盾が内包されていることはよく知られていた(11)。例えば「持続可能な開発」と聞いて、ある人々はそれを、現代世代のニーズを意識したうえでの将来世代のニーズを満たすための概念として理解し、別の人々は将来世代のニーズを意識したうえでの現代世代のニーズを満たすための概念として理解する。

 また、ある人々はここでの‘development’を経済成長の意味で理解し、別の人々はそれを、成長(growth)を伴わない“発展”として理解するだろう(12)。さらに言えば、ある人々は、ここでの「現代世代のニーズ」(needs of the present)を途上国での貧困の克服と理解し、別の人々はそれを先進国でのさらなる物質的な富を指すものとして理解する、といった具合である(13)。

 要するに、ここでは経済成長に頼らない新たな社会モデルを希求する人々と、自国の貧困を乗り越えて先進国並みの生活水準を希求する人々、そして先進国内でのさらなる物質的な富と経済成長を求める人々とが、それぞれの脳裏にまるで異なる世界を思い描きながら、「持続可能性が大事ですね」と握手するということが平然と行われている。

 その意味において持続可能性概念は、環境思想ということ以前に、そもそも理念として破綻しているのである。しかも驚くべきことに、持続可能性概念を用いる人々の間では、こうした理念としての一貫性のなさが、逆に歓迎されている側面さえある。というのも、理念が包括的で曖昧になればなるほど、そこでは立場の異なる人々を形だけでも連携させることが可能となるからである。

 ここからわれわれが読み取れることは、持続可能性の言う“持続(sustain)”とは、環境対策にリソースを割きつつも、最富裕国を含めた全世界で可能な限りの経済成長を持続させ、途上国の人々を富裕国並みの生活水準に引き上げていくこと、端的に言えば“いま”を持続させることでしかないということである(14)。

 また持続可能性にせよ、SDGsにせよ、それらは結局政策的なスローガン、あるいは人々を連携させるためのツールに過ぎない。このことが物語っているのは、現場においては各自の都合や目論みが正当化され、人々が動員できればそれでいいのであって、そこでは思想の役割など、そもそも期待されていないということである。「思想なき環境の時代」とは、いわばこうした時代のことを指しているのである。

 3.新たな時代の諸論点としての「地球1個分」問題と「脱生体化」問題

 それでは環境思想は、歴史的にその役割を終えたということで良いのだろうか。ここからは、それにもかかわらず、エコロジー思想が提起してきた問題そのものは依然として未解決であるということ、また環境思想として本質的な問いは、いまや「地球1個分」問題や「脱生体化」問題という形で焦点化できる、ということについて見ていきたい。

(1)「地球1個分」問題とは何か

 まず「地球1個分」問題とは、われわれの社会がすでに「地球1個分」の容量を超過している可能性が高いこと、またそのことを受けて、この先われわれがその容量に収まる社会を目指すのか、あるいはその容量の限界を超越していく社会を目指すのかという問題である。

 前述したように、エコロジー思想が目指したのは、技術によって問題を表面的に解決することではなく、そもそも環境問題を引き起こさない社会を構築するということであった。そしてこの問題意識の背景にあったのは、人類の自然世界へ及ぼす環境負荷がすでに過剰な状態にあるという認識であった。ではその環境負荷とは、実際どの程度のものなのだろうか。

 最初の手がかりになるのは、特定の集団がもたらす環境負荷を、その集団の物質的生活を維持するために必要となる、耕作地、牧草地、森林地、漁場、CO2吸収源、生産能力阻害地の合計値によって表現した、エコロジカル・フットプリント(ecological footprint)という指標である(15)。実際に存在する土地面積は有限であるため、ここでは両者を比較することを通じて、その集団の環境負荷の水準を推定するのである。

 そしてこの指標が示すところによれば、人類はすでに1970年頃に「地球1個分」を超過してしまっており、コロナ禍前の2018年時点で、実際の生物生産力の1.72倍に相当する物質的生活を送っているということになる。また当時の世界人口である76億人全員が同程度の生活を送ると仮定するなら、米国人相当で地球があと4つ、日本人相当で地球があと2つ必要になるということが示されている(16)。

 次に、今日盛んに言及されている人新世(Anthropocene)の概念もまた、この問題と深くかかわるものだと言える。人新世とは、人類がもたらす地球環境への甚大な影響力を加味し、完新世とは区別される形で新たに導入が検討されている地質年代のことである(17)。実際、人類は20世紀後半に、あらゆる指標が急激に伸張する大加速(great acceleration)と呼ばれる時代を経験しており、ある研究によれば、人類が生みだした人工物の総量は、20世紀初頭には生物総重量の3%に過ぎなかったものの、2020年頃にはついにその総重量を上回ったとされている(18)。

 また人新世概念とともにしばしば言及されるのは、プラネタリー・バウンダリー(planetary boundaries)という指標である(19)。プラネタリー・バウンダリーとは、現在の地球環境を安定した状態に保つために必要となる特定要素の閾値(tipping point)のことを指しており、ここにはその閾値を超えてしまうと、地球環境に急激な変容が生じて、二度と元の状態には戻れなくなるということが含意されている。

 そして研究者によれば、われわれはその9つの指標――気候変動、窒素/リンの生物地球化学的循環の破壊、生物多様性の破壊、土地利用の変化、新規化学物質、オゾン層の破壊、大気エアロゾルの負荷、海洋の酸性化、淡水の消費――のうち、すでに少なくとも3つの指標で閾値を超えてしまっている可能性が高いとされる(20)。

 もちろんこうした指標が、どれだけ正確に人類の環境負荷を評価できているのかということについては議論の余地がある(21)。とはいえ、有限な世界なのかで何かが無限に拡大することは不可能であるということを考慮するなら、“いま”を持続させる試みが、いつかは「地球1個分」という問題に対して決着をつけなければならないということについては理解できる。争点となっているのは、この先われわれが「地球1個分」の容量に収まる社会を目指そうとするのか、あるいはその限界を超越する社会を目指そうとするのかという思想的な問題なのである。

 この点を踏まえることで、われわれはなぜ近年再び脱成長(degrowth)の議論が注目されているのかということについても改めて理解できる。脱成長とは、端的に述べれば、たとえ物質的な経済成長を伴わなくとも、われわれの福祉が実現できるような新たな社会を目指すという思想であり(22)、「地球1個分」問題から見れば、この思想がまさしく「地球1個分」の社会を構想するものだということが分かるからである。

 とはいえ脱成長には未解決の問題がある。それは脱成長が目指す社会とは、つまるところバイオリージョンに根ざした自律的でローカルな共同体主義であり、それは結局エコロジー思想が目指したものと変わらないからである(23)。つまり脱成長を支えるライフスタイルは、想像している分には素晴らしいが、いざ実践するには多大な困難を乗り越える必要があること、また大多数の人々にとっては、現実問題として、そのような生活を必ずしも望んでいないという、エコロジー思想が行き詰まったのと同じ問題を抱えているということなのである(24)。

(2)「脱生体化」問題とは何か

 ここで「地球1個分」問題と対になる、「脱生体化」問題についても考えてみよう。「脱生体化」問題とは、この先われわれが、この有限な身体や地球生態系を所与のものとして受け入れていくのか、あるいはそれに直接的に介入して、その制約を超越しようとしていくのかという問題である。

 前述のように、エコロジー思想が目指したのは、生態系の秩序から突出した人類社会を再びその秩序に埋め戻すことであった。そしてその背景にあったのは、人間とは本質的に生物学的な存在であり、生態学的で、身体的な存在であるとする人間観である。つまりわれわれは、どこまでいっても生体的(organismic)な存在であるということであり、結局はこの有限な身体や、生態系や、惑星とともに生きていかなければならないという認識である。しかしいまや、その前提は必ずしも自明のものではなくなりつつあるのである。

 そのひとつの兆候は、惑星改造技術とも形容できるジオエンジニアリング(geoengineering)において見ることができる(25)。ジオエンジニアリングとは、主として気候変動への対策として、それを緩和策でも適応策でもなく、地球環境そのものへの技術的な介入によって解決しようとする技術領域のことを指している。

 例えばバイオマスを用いて発電を行いつつ、発生したCO2を海底や地下深くに閉じ込めるバイオマスCO2貯留技術は有名だろう。この技術が注目されているのは、それが単なる温室効果ガスの排出削減にとどまらず、まさしく大気中の炭素を人為的に除去する技術として期待できるからである。これに対して大きな話題を呼んだのは、大気の上空に微少な粒子であるエアロゾルを散布することによって地球を直接冷やす、成層圏エアロゾル注入技術である。これは火山噴火が寒冷化を引き起こす原理を応用したものであったが、その効果が明確ではないことや、リスクが大きく、失敗は許されないことなどから大きな論争を生んだのである。

 確かに現時点のジオエンジニアリングには、効果や実現性に乏しいものが多く見られる。しかしおそらくこの先10年、20年にわたって、この分野で新たな技術が登場してくることは間違いない。そして重要なことは、一連の技術が、あるひとつの意志や方向性を明確に体現するものであるということである。すなわち地球生態系の要求に人類をあわせていく方向性ではなく、人類の要求に地球生態系を合わせていく――あたかも自動化された空調システムを惑星規模へと拡大するように――という方向性に他ならない。

 もうひとつの兆候は、近年急速に進むポストヒューマン(posthuman)的状況の拡大において見ることができる。ここでのポストヒューマンとは、ビッグデータ、AI、ロボット、生命操作などをめぐる技術的進展を経て、身体と機械、脳とAI、治療と人体改造の境界が曖昧となり、これまで自明とされてきた人間の概念が通用しなくなる事態のことを指している(26)。

 例えば2020年に内閣府が発表したムーンショット目標において、2050年までに「人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」することがあげられていることは示唆的ある。そこでは身体的な病気や障碍、高齢などで出歩くのが困難な人々をはじめ――おそらく潜在的には性の不一致や、直接的なコミュニケーションに苦手意識を持つ人々を含む――あらゆる人々が、メタバース内のVRアバターや、遠隔操作可能なロボットアバターを用いて、いつまでも“自分らしく”、エネルギッシュに活躍し続けられる未来が想定されている(27)。

 またメタバースは、しばしば物理世界の現実をVR空間という新領域に拡張するものとして単純に理解されるが、その本質とは、メタバースというもうひとつの現実のなかで、かつてない高度な没入感のもと、自らが望む「なりたい私」として自由に生きられることにあるとの指摘もある(28)。

 こうした事例が示しているのは、有限な身体を所与と見なし、その有限性のなかに生きる意味を見いだしていく生き方はいずれ時代遅れとなる可能性があるということ、象徴的な表現を用いれば、もはや人類は、身体がもたらす不都合をできる限り排除し、究極的にはある種の精神体、「思念体」として生きていく方向性に進みつつあるということである。

 「思念体」とは、身体から切り離された想像上の人格のことを指しているが、ここでは身体的な私がアバターとして仮想化されるのではなく、「思念体」として抽象化された“私”が、身体としての私や、ロボットアバターとしての私、あるいはVRアバターとしての私として現実世界に具現化すると想像される(29)。われわれは身体という制約をこえて「なりたい私」を演出し、複数の現実のなかで、ときには複数の人格を切り替えながら生きていくことになるのである。

 ここでわれわれは、ジオエンジニアリングとポストヒューマンに見られる興味深い共通点に気づくことができるだろう。それは、前者が「生きている地球」の超克(「脱地球化」)を意味するのに対して、後者が「生きている身体」の超克(「脱身体化」)を意味しているということ、そのいずれもが、生体的存在の要となる有限な身体や、生態系や、惑星を桎梏と見なし、それらを取り除いていく道を選択するものであるということなのである。

(3)「カプセル社会」のユートピア、「脳人間」のユートピア

 さて、われわれは「思想なき環境の時代」において、環境思想として論じるべきことは依然として残されているということについて見てきた。しかし以上の分析から見えてきたのは、われわれの社会がじわじわと着実に「脱地球化」や「脱身体化」の方向性へと進んでいるということであった。

 興味深いのは、すでにわれわれが未解決であった「地球1個分」問題を、まさしく「脱生体化」によってなし崩し的に乗り越えていこうとしているかもしれないということである。

 このことを理解するために、思考実験として、「脱生体化」が極限にまで進んだ世界について考えてみよう(30)。例えばそれは、空を覆うほどの巨大なカプセルのなかに、われわれが思い描く理想的な都市空間とともに、理想的な自然生態系が再現された世界かもしれない。カプセルの中では持続可能に振る舞うシステムを通じて、人間と自然の共生が完璧に演出されているものの、その一歩外側には、人間がまともに生活できないような不毛な世界が一面に広がっている。そしてそうしたカプセルが、月や火星を含んだ惑星外にまで延々と伸張されているのである。

 もちろんここでのカプセルとは比喩であり、重要なことは、人類が望む“完璧な”環境が、管理された空間のなかに再現されているという点である。そこにある“自然”は、確かに人為的な産物にすぎないものの、そこに美しい景観や地球生態系の多様性がそれなりに再現できているとするなら、そこに人々は不都合を感じるだろうか。

 違う角度から考えてみよう。われわれが「地球1個分」を超過してしまうのは、そもそもわれわれが身体を持っているからだとは言えないだろうか(31)。ならばわれわれは、生きる舞台を完全にメタバース内へと移行させ、物理的には“脳だけ”になってみたとすればどうだろう。

 「脳」とその生命維持装置の管理、そして地球生態系全体のモニタリングはAIに任せ、メンテナンス時のみ、例外的に一部の人員がメタバース内からロボットに憑依して遠隔操作を行う。そのようにすれば、人類が消費するエネルギーは最小限となり、環境負荷は大幅に軽減される。それどころか、食料や娯楽のために他の動植物を殺める必要もなくなり、彼岸であった動物の権利や自然の権利さえ保障された世界を実現できるのではないか――。

 思考実験はこれぐらいにしておこう。本論が問いたいのは、そこに環境思想が存在する余地は未だ残されているのかということである。「ユートピア」にとって意味があるのは、望ましい環境を人為的に創出できる技術であって、その行為の意味を問うための思想ではないからである。

4.おわりに――環境思想は必要なのか?

 『環境プラグマティズム』を訳出した岡本は、その解説のなかで、日本の環境哲学が「2週遅れ」の状態にあると述べている(32)。そこには人間中心主義の克服という「大きな物語」が衰退した後、科学者や政策決定者への具体的な貢献を目指す「環境プラグマティズム」でさえ、日本ではそれほど浸透していないことへの嘆きが表現されている。だがそれは、環境思想を応用倫理学としての環境倫理学説の文脈からのみ捉えた狭い解釈ではないだろうか。

 というよりも、事態はおそらくはるかに深刻なのである。本論では、われわれが“いま”の持続を主軸とした「思想なき環境の時代」を生きるなかで、すでに現実においては、各自の都合や目論みを正当化するという意味合いを超えて、つまり真の意味において、倫理も、哲学も必要とされてはいないということ、またそこに多くの人々は何ら不都合を感じていないということについて述べてきた。

 その背景にあるのは、まさしく「地球1個分」問題を「脱生体化」によって解決していくという暗黙のトレンドであり、身体を含んだ自然世界を人類が制圧していくことだけが唯一意味を持つような隠された世界観である。その成功のあかつきには、そもそも環境思想自体が不要となるのであって、いまさら現実に人文科学があれこれ口を挟む余地など少しも残されていないのである。

 だが、ひとつだけ忘れてはならないことがある。それは「思想なき環境の時代」に生きることの意味を問い、そこに環境思想への「死の宣告」が含まれることを明らかにすることができるのもまた、他ならない環境思想にしか成せない業であったという事実である。

【注】

(略)

参考・引用文献

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