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君は正解の無い世界で涙を拭く

存在すると言う事は、「限定された条件の中では最も優れている」
みたいな事を、雑草が生えた畑を見て思った

良く育ったズッキーニの隙間を雑草が埋めつくし、もはや土壌を確認する事は出来ない。
しかしズッキーニの葉を一枚めくればその下には雑草は無く土壌が伺える。パズルのように野菜と雑草が組み合わさり、土を覆っている。
葉緑体というソーラーパネルは陽の光が当たる場所でのみ活動し、日陰では息をひそめている。大地と水と光が構築した環境下で柔軟に活動する植物たちの掛け合いを眺めながら、私は瞬間の気まぐれで彼らの生存に干渉するのである。

多様な環境下において、正解はなく、
不確定な環境下で偶然自分の性質がマッチしたという結果が正解の全てだ

人間はどうだろう

人間の歴史は環境の変数を極力減らすために尽力してきた歴史である
変数を減らす事は、未来の不確定要素を削減し、世界は予測可能で満ち溢れた。予測可能な世界には正解が生まれ、人類の生存可能性は大きく向上した。本来正解などないこの世界で、部分的に環境を固定し、明日が来る確率を高くした。

しかしながら、変数削減の弊害として「正解」という概念が生まれてしまった。本来、この世界に正解など存在しないにもかかわらずだ。

頭が良い、体が強い、精神が強い、お金がある
人間社会には、様々な虚構の正解が生まれ、人類はこの虚構に向けた無意味な行進に邁進するのである。

人類は環境を固定する事で変数を減らし、種としての生存可能性をあげた。その弊害により生まれた「正解」に生物的な幸福との本質的な相関はありえない。

そこにあるのは虚構の幸福だけであり、
それゆえ僕らは正解の無い世界で今日も涙を拭かざるを得ない。

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