2023/7/15今日の散文「 私は果たして尊べれるべき存在か 」

・【関連:俣天地への祈り/田口ランディ】
192「私たち人間は、実は自然なんです。自然の一部なわけですよ。なのに、そうじゃない教育、そうじゃないシステム、そうじゃない暦、そうじゃない社会、そういうものを使って暮らしていくことは、かなりのストレスなんです。
戦後は、人権、人間の尊厳、個人の自由というものがとても教育現場て大切にされてきました。だから「私の尊さ」というものが侵されるとめちゃくちゃ腹が立つ子どもが増えるわけです。
そんな思い命を与えられてしまったら、しんどくなってしまうのが日本人のんですよ。」

私は尊くて、大切で、何より守られるべき存在である。
果たしてそれは本当だろうか。正しいのだろうか。
全ての人がそう確かに思うことのできる社会は果たして実現することは可能なのか。表面的にはとても素晴らしいことのように思えるし、諦めないことが大切なのかもしれないけれど、歪みやしわ寄せは生まれていないのだろうか。
果たして、私という存在は、私の自由は、そこまで尊ばれるものなのだろうか。
広い世界の中で、大きい流れの中で、そこまで重要視されるべき存在なのだろうか。
それは重圧となり苦しい負荷になりはしないか。

人間存在というものが、自分にとって非常に重く、それから重要なものとしてのしかかってきたときに、私たちは自然を受けいられなくなるんです。こんな尊厳のある絶対的な人間である自分なのに、自然は思い通りになってくれません。
自分の思い通りにならないことを受け入れることができなくなってしまう。
それはあまりに傲慢であり、それが当たり前のこととしてそれぞれの個人の核になってしまったら、どんなに生きずらいだろう。苦しみが土台になってしまうだろう。
「自分が産んだ子どもに対して「この子どもは私という個人の尊厳を持ってして私が産んで育てているのに、私の思い通りにならないとはなにごとだ」と耐えられなくなっていくんです。
そして、自分の感情が思い通りにならないことまで耐えられなくなってくるんです。人間が自然である以上、肉体感覚が呼び起こす感情というのは、これも自然なのです、体の中から湧き上がってくる怒り、恐怖、喜び、中でも特に扱いが難しいのが、恐怖と怒りです。これを抑えるのは本当に難しい。
けれども、この感情ですら、自分の思いどりになるという感覚を、今、かなりの人が持ってしまっている。そして、思いのままにならない感情に対して、逆切れしてしまうです。
「なんで俺はこんなことができないんだ」とか、「なぜ俺は人を恨んでしまうんだ」とか、良い人ほど、自分を責めていってしまい鬱になる。天気を代えられないのと一緒で、感情も変えられないんです。でも嵐は過ぎて陽はまた昇る。それが信じられない。待たずに、どうにかしてやろうと焦る。
これは生きていく上で、とても苦しいことです。」」

”自分は尊ばれるべき存在である、だからこそ同様に他者も尊ばれる存在である。”
この「だからこそ」を持つことが重要なのかもしれない。
上手く両立することができれば平和的だが、難しいのが「私の尊さ」と「他者の尊さ」が両立する道が閉ざされているときだ。

また、突き詰めると「私の自由」にならない区域も必ず存在しているということ。避けることはできないということ。それは諦めないといけないということ。

どこまで自身の尊さを貫き守っていくか、どこまで自身の自由の区域を広げるために戦うか。
そのバランスが凄く難しいと感じる。
【関連:無痛文明論/森岡正博】

以前岡潔さんの書籍「数学する人生」を読んで思いを綴った散文のことをふと思い出した。

「自分をまとめている(主宰している)のは「心」だと思ってしまいがちであるが、それは間違っている。すべてバランスよく調和がとれた世界・自然が成り立ち、今日も進んでいるということは、全てを同じ共通の「主宰」がまとめているのである。(ここの解釈が少し難しい…)それぞれの中にある「心」ではなく、自分だけの中にたったひとつ「主宰」があるのでもない。

自分一人ですべてが完結するという思考を手放さなくてはいけない。

己を木に付く一枚の葉であると考える。狭い視野で、個人主義的な思考でいると、自分はひとりの力で成り立ち生きていると思ってしまうが、葉は木から落ちてしまうともう生きることはできない。葉(=私/自我)が生きていられるのは木(=主宰/真我・大我)が生きているからなのである。

この思考でいると仮に葉が死んでしまっても木は冬を超え生き続ける。「葉=自分」という考えを捨て、「木全体=自分」と考えると自分は不生不滅であり、巡っていくという仏教の教えに繋がっていく。

私が私が、ではなく、大きな全体の小さな一部であることを忘れず、全体の為にという選択をしてみるのも一つの道なのだ。

二つの視野を持つことが大切だという。一枚の「葉」としての営みがあり、それを楽しみ大切にすることも大事だ。それは自分にしかできないものだから。ただ、もう一つの視点を忘れてはいけない。自分の肉体は主宰性を帯びているからこそ存在しているのである。基本のエネルギーを常に「木」受け取っているのだ。一枚で、1人で成り立っていると思ってはいけない。

”幸福とか生き甲斐とかいうものは、生きている木から枝を伝わって葉に来る樹液のうちに含まれている。”

以上が書籍「数学する人生」を読んで足が止まり、考え込んでしまった内容だ。上手く解釈しきれていない部分も多くあると我ながら思うが、完全に私の人生に角度を与えてくれた思考だ。

私自身「幸福・生き甲斐」について思いを巡らせるときどうしても「葉」という視点でしか考えることができなくなってしまう。自分にぎゅっと焦点を集めてしまう。ただ、この思考が木全体にとっての幸せの為にできることを、恩返しできることを、還元できることを考え、その選択をするという道を教えてくれた。

そして自分が知りえる自分なんて本当に微々たるものだということが、初めてすとんと自分の中に納まった感じがする。

「葉」として「木」として。

どんな選択をしていこうか。」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?