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改悪❓改善❓「幸せの国」ブータン旅行新時代🇧🇹

はじめに

こんばんクズザンポーラ💛🐉🧡Kyoskéこと暑寒煮切(あっさむにるぎり)だよっ⭐️

Clubhouse『インドの衝撃(インド大学)』でのブータン講義を聴いてくれてありがとうございました‼️

音声版はこちら(約54分)

今日は喋った瞬間にUP🌟

つまり、事前にこの記事をもう作成してたんだよ😝

これまでの流れだと、講義用に色々資料をまとめて原稿的なものを作り(箇条書きだけどね)、それを講義した翌日以降に、その原稿をもとにテキスト化してたんだけど、それが案外時間かかるんだわ💦

あと、喋る当日って時間がないのでnoteできちんとした記事書けないっていう問題もあったり、

喋った内容とこっちで書いた内容に意外とズレがあるという問題もあった。

だったら、予めnoteの記事書いといて、それをClubhouseで読めばいいんじゃないか、って思ったわけ。

厨房設備が整ってないバーの間借りカレーのイメージかもしれない。自宅でカレー作って、バーでは加熱と仕上げだけ、的な。

それに目を付けて間借りカレーのフランチャイズというのをやってるとこあったな。

わかんないでもないんだけど、間借りカレーの魅力って、規格化されてない荒削りの中にキラリと光るものがあるかもしれない、ってとこなんじゃないの。

とりあえず自分の記事は最高に粗削りだけども、コピペではなく自分の意見を添えて書くようにしている。

それでもレトルトっぽい、と思われてしまうなら、それはそれで自分の文才のなさなのだろう。

それとすごいタイムリーなんだけど、このあと22:00からのNHK国際報道でまさにこの話題をやるとのこと。

自分と違ってかなり綿密に調べられているはずなので、是非ご視聴を。

んじゃ、ブータンの話をしていくよ🐉🐉🐉

「幸せの国」はどうやって生まれたか

ブータン旅行という以前にブータンってどんな国なの❓

「幸せの国」っていうのは聞いたことあるけど❓

ということで、超ザックリだけどブータンについての概説を書いていきたいと思う。

ブータンを知るためにはまずチベットを知らなければならない。

チベットとは現在の中国チベット自治区のことを指すと思っている人も多いけど、元々はインド亜大陸から見てヒマラヤ大陸の北側、中国から見れば西部に位置するチベット高原を意味していて、はチベット自治区のみならず青海省の全域、甘粛省・四川省・雲南省の一部に跨がる広大な地域。

というよりは中国共産党が意図的にチベット高原を分割支配しているといった方が正しい。

チベット高原を7世紀から9世紀に統一し、唐のライバルとして君臨した吐蕃という王朝があった。

吐蕃は唐からの文化的影響もあったけれど、それ以上にインドからの方が強く、インドから仏教(密教)とブラーフミー文字を輸入し、それを基にチベット仏教とチベット文字を創り上げ、勢力はチベット高原からヒマラヤを超えてインド亜大陸へと伸ばした。

東からアルナーチャル=プラーデシュ、ブータン、シッキム(現在はウエスト=ベンガル州になっているダージリン近辺を含む)、ネパール、ラダックがチベット文化圏となり、現在はチベット文化圏ではないけれど現パキスタン領のギルギットまで手を広げた。

言語学からわかるようにチベットとビルマは元々ヒマラヤ近辺の共通する文化圏だったけど、吐蕃王朝によってチベットの独自性が確立した。

そしてビルマの方は現在のミャンマーへ南下して1044年にパガン王朝を建てて独自の文化を確立する。

現在のブータンはチベットとビルマに分化する以前の祖型と呼べるところからチベット文化圏に染め上げられていき、そこから押し出されて南下した人達がビルマをつくったといえる。

このことは後述する通りブータンを語る上でとても重要な要素になっていく。

吐蕃滅亡後、インド亜大陸北部を含めたチベット文化圏は政治的に分裂。また、チベット仏教もゲルク派、ニンマ派、カギュ派、サキャ派に大きく分かれる。

現在のダライ=ラマ14世率いるチベット亡命政府はゲルク派、インドに併合されたシッキム王国はニンマ派、ラダック王国はカギュ派、サキャ派は現在では少数だけどモンゴル帝国時代は隆盛を誇った。

13世紀にカギュ派の分派であるドゥク派がブータンに伝わり以後当地のマジョリティになっていくのだけど、17世紀の後継者対立の結果ガワン=ナムゲルによる政権が成立し、ドゥク派を信奉しチベット語系でチベット文字を使うゾンカ語を用いる現在のブータンの基礎となる。

ドゥクはチベット語圏における雷龍⚡️🐉のことで、ブータンにまつわる様々なものに使われる。ブータンの自称がまずドゥク=ユル(雷龍の国)だし、国王はドゥク=ギャルポ(雷龍王)、国営航空会社はドゥク航空などなど。国旗ももちろん雷龍が描かれている。

ガワン=ナムゲルは政教両面の統治者を意味するシャブドゥンの初代となり、チベットのツァンパ政権、ダライ=ラマ政権から度々侵攻を受けるもこれを跳ね除けて支配者としての地位を確立した。

シャブドゥンは現在のダライ=ラマ同様に死亡すると、誰かに転生する方式が採られていた。

ブータンはシッキムやアッサム、ドゥアール(ウエスト=ベンガル州シリグリ周辺)、ベンガル、ビハールに侵出するなど肉食系だったけど、南進がインド亜大陸の新たな支配者イギリスを刺激することになる。

この辺をちゃんと書けばめちゃ長くなるけど、単純に書くと1865年にイギリスと戦争して負けて属国になった。また、アッサム、ベンガル、ドゥアールの領土を失い、今の領土になった。

イギリスはロシア帝国や清帝国のチベット侵出を警戒して、インドとチベットの間にあるブータンやシッキムへの干渉を強めた。

1865年からブータンでは大規模な内戦が起こり、これに最終的に勝利したブータン東部トンサ郡の領主ウゲン=ワンチュクが1907年に世襲制のドゥク=ギャルポ(雷龍王)となり、ブータン王国が成立する。

その王朝は現在でも続き、現在は5代目国王ジグミ=ケサル=ワンチュクが統治する。1980年生まれのまだまだ若い国王で、若々しくサッカーに興じている姿を見たことがあるかもしれない。

ちなみに日本でとても人気のあるジェツン=ペマ=ワンチュク王妃は1990年生まれで10歳下。ケサル国王は17歳のときに当時7歳のペマ王妃にプロポーズしたという光源氏的な感覚がちょっと理解できない😅

ブータン王国が成立して間もない1910年にプナカ条約が成立して、イギリスの保護国となり、これはイギリスがインドから撤退する1947年まで続いた。英領インドはブータン国王をインドの藩王と同格として扱った。

そして1947年にはインド・ブータン条約が独立したインドとの間に締結され、イギリスが持っていたブータンの外交・防衛の指導権をインドが引き継ぐことになった。

しばらく前にニュースで「中国がブータン領内に村をつくって」、インド軍と人民解放軍が衝突したのを覚えているだろうか。

なんでブータン領が侵されているのに、ブータンじゃなくてインドが戦うのか疑問に持った人もいるかもしれないけど、そういうこと。

さて、ブータンはそうやってイギリスやインドに守られているからこそ鎖国政策を採ることができた。

何がすごいって1950年代にプナカからティンプーに遷都したことが、1958年にブータンを探検した植物学者中尾佐助が国王に謁見するまで世界に知られていなかった。

この中尾氏は植物学のみならず、ヒマラヤの文化が日本と共通していることを発見した功績もあるのだけど(照葉樹林文化論)、そんなことより個人の飲食店なら人知れず移転するケースあるけどさ、国だぜ😅

そんなブータンも1971年には国連に加盟し、少しずつ国際関係を持つようになる。

ただ、国連がGDPやGNPを上げて豊かになろうぜイェイ❣️とか言ってるのを見て、ブータンは違和感を持つ。

ブータンの誇る里山をぶっ壊して農地や工業用地にして、少しはお金は増えるかもしれないけど、それが本当に豊かなのか❓違うんじゃねって。

国連加盟の翌年、国連加盟を果たした第3代国王ジグミ=ドルジ=ワンチュクが崩御し、

16歳で即位し第4代国王となったジグミ=シンゲ=ワンチュクはGNP、GDPに代わる指標として国民総幸福量(Gross National Happiness)を提唱した。

また、ドルジ国王時代から徐々に王権の縮小を模索し、シンゲ国王時代に大きく進み、そして現ケサル国王が2008年に立憲君主制への移行を宣言した。

「幸せの国」の光と影

ブータンが提唱した新概念国民総幸福量の略称であるGNHはブータンの代名詞のように言われ、これに由来する旅行会社さんもあるけど、GNHがどういうものなのかを見てみよう。

ちなみにシンゲ国王はあくまでGNHの概念を提唱したに過ぎず、以下に挙げるその明確化はブータン政府による後付け。

まず4つの柱として以下があり、

・持続可能な社会経済開発
・環境保護
・伝統文化の復興
・優れた統治力

があり、これを基にして以下の9つの指標がある。

・心理的幸福
・時間の使い方とバランス
・文化の多様性
・地域の活力
・環境の多様性
・良い統治
・健康
・教育
・生活水準

弱冠16歳にして即位したシンゲ国王は、GNHをブータンの国政指標とし、そして経済ではなくGNHで一番の国を目指すことを宣言。

具体的には所得格差の是正、教育・医療の無償化、森林や伝統生活の保護など。

奇しくもこの1970年代に欧米で主張されはじめ、1980年代では英米で実践、今世紀に入ると日本をはじめ世界中で実践されてきた新自由主義の対極にあるといえ、

実際日本では2000年代の半ば、新自由主義による光と影が鮮明になり出した頃からGNHとブータンが注目され始める。

ここまでを切り取ってみると、なんかすごくいいんじゃないかと思うんだけど、例えば1989年には民族衣装の着用、ゾンカ語の公用語化、伝統的儀礼の実施と尊守を義務化したところ、ローツァンパと呼ばれるネパール系住民を中心に大きな反発があった。

ブータンはドゥクパと呼ばれるチベット系住民だけが住んでるわけじゃない。ブータンとして持っている領土のなかには4割のネパール系住民も住んでいるし、ドゥクパについてもざっくりガロンとツァンラに分かれる。これ以外に少数民族もいる。

ガロンはチベット系の文化を有するけれど、ツァンラはむしろアッサム、ビルマに近い。

先述したようにチベットとビルマが元々は同じ文化圏で、チベットは吐蕃の時代にインドと中国から影響を受けて独自化した。ツァンラの方がむしろいにしえのブータン人で、ガロンの方が後からチベット化した人たちと考えられている。

以上の点からガロンの言語であるゾンカ語を話す人は実はネパール語を話す人より少ないし、今のブータンで公用語的に扱われているのは英語、もっといえば昔はヒンディー語がその地位にあったこともあって、ブータン人の会話にはそれらの言葉が入り乱れている。

宗教についてもそうで、ガロンは主にドゥク派を信奉しそれが国教だけど、ローツァンパはヒンドゥー教、ツァンラはチベット仏教のうちニンマ派が多い。少数民族はアニミズムの伝統を守っていることが多い。

インドの北東部もそうなんだけど、このあたりは現代の国民国家の枠で語れないほど民族が入り乱れている。

ガロンのみの幸福を押し付けても、それはツァンラやローツァンパ、少数民族にとってはいいわけがない。

これともうひとつ、「幸福」についての考え方にも議論があると思う。

ブータンの考える「幸福」は伝統コミュニティのなかでの相互依存、それに欲しがらず足るを知る、というところにある。

前者はいいとしても後者を徹底させるためにブータン政府がしたことは輸出入の制限や海外情報の遮断。

それって北朝鮮などと何が違うのだろうか。

シンガポールの独裁政治に対して「明るい北朝鮮」という揶揄があるけど、じゃあブータンは「やさしい北朝鮮」かな。

そして現在のブータンではインターネットが急速に社会を変えている。

3万円前後の月収なのに、彼らの月収を上回る車やPC、スマホ、ブランド物の洋服を次々と買うのだという。

何でそんなことができるのかって❓

日本でいうリボ払いのような月々の返済額を低く抑えた「終わらないローン」が組まれているからに他ならない。

とりあえず日本では闇金に手を出さなければ年収の3分の1までしかお金を借りれないし、月々の返済額や利子も一定期間で終わるように設計されている。

だから「借り過ぎる」ということがなかなかできない。

だけどブータンは恐らくリボ払い的なシステムかつ借入額が青天井なのか、そうでなくとも天井高が異様に高いのだろう。

銀行は当然彼らが仕事を引退したり、亡くなったりして貸し倒れになるリスクを組み込んだ利息で貸している。その利息を食んでいれば儲かるから、次から次へと貸すんだろう。

いったい何が「足るを知る」だったんだよ。

むしろあまりに足りないことが理解できない人達過ぎて恐ろしい。

ということでこんな話もある。

この世界幸福度ランキングは欧米的な価値観なのでブータンは上位に来ないとは言われているけれども、そうは言ってもランキングが急落している事実はある。

これからのブータンに必要なのは、多様な価値観に触れるなかで自分で考える力を身につけることで自己肯定感を上げていく、欧米型の教育なんだろう。

口で言うほど簡単なことではないけど、もう「やさしい北朝鮮」では行き詰まっていることは確実。

ってなことで色々矛盾は噴出しているけれども、諸外国とは違ったユニークな政策かつ強い意志を持ってそれを遂行しているのは事実。

ブータンの観光政策においてもその考え方が色濃く反映されている。それを次の項で見ていきたい。

「幸せの国」に立ち入るコストとその変革

では、ここでブータンの観光政策を見ていきたい。

ブータンの観光政策で一貫している理念が「High Value, Low Volume」、つまり高い価値を少数の旅行者に提供するというもの。

そのために他国が近年オーヴァー=ツーリズム、環境公害などと言い出すずっと昔から観光客の流入を徹底して制限してきた。

それがかえって希少価値を生み、ブータンに行きたいと思う人を増やしたなんて皮肉もあったり。

ブータンの観光政策の変遷に詳しい論文を追うかたちで軌跡を追ってみたいと思う。

https://core.ac.uk/download/pdf/234043877.pdf

鎖国政策を取っていたブータンが1971年に国連に加盟、翌年に3代目ドルジ国王が急逝して4代目シンゲ国王が即位、1974年の戴冠式に約20名の国賓を招待すべくティンプー、パロ、プンツォリンに宿泊施設を置き、道路を整備して車を用意。このインフラを活かすべく観光が始まったのだという。

この年にブータンを訪れた287名は観光客というよりは国賓として扱われ、歓待された人々はブータンをシャングリラと呼んだ。

⬆️歌い方が似てると言われたことがある。

ただ、隣のネパール🇳🇵にヒッピーが大量に押し寄せていたこともあって(カトマンドゥはゴア🇮🇳、カーブル🇦🇫と並ぶ三大聖地と呼ばれた)、1年間に200名かつ6名以上のグループに入国を制限し、かつ1日130USドルを取るようになった。

1983年には今のところ国内唯一の空港(当然国際空港)がパロに開港するなど徐々にインフラが整備されてきたけれども、制度的にコロナ禍突入まで続くものが完成したのが1991年のこと。

ブータン観光公団が独占していた観光が市場に解放され、多くの旅行会社ができるようになる。インド人以外の観光客は必ず政府指定の宿泊施設に泊まり、ガイドが入国から出国までアテンドし食事もつく。

観光客は公定料金を滞在日数分支払い、この約3分の1が観光税、残りが宿泊代、食事代、移動代、ガイド代など。

実費がこれより下回ろうと公定料金は必ず取られるし、足が出ればその分は当然に徴収される。

また、政府関係者や特別な調査などでない限り、どんな理由でも「観光客」扱いとなり、業務渡航だろうと友人や親族に会いに行くのだろうと観光ガイドが付き公定料金を支払わねばならない。

その公定料金はコロナ禍直前で、閑散期(12〜2月、6〜8月)に3人以上が1泊200USドル、繁忙期(3〜5月、9〜11月)の1人参加で1泊290USドル、つまりどんな条件でも1泊200USドル代を支払う必要があった。

16人以上の団体だと1人がロハになったりもしたんだけど、兎にも角にも高い。

そこである旅行会社から「裏技はないのか」と聞かれたことがある。あったらこっちが知りたい。

公定料金の存在は知れ渡ってしまっているから、旅行を手配する側としては何にも面白くない。だって、値付けした瞬間に手数料をどれだけ取っているのかがわかってしまうわけだから。

裏技がホントにあるなら教えるわけねーじゃん。公定料金を払ってるフリして実は裏技を使えば、その差額を儲けられるでしょ。

FF7のベータのようなその存在を誰もが知ってるか容易に気が付けるものを裏技とは呼ばない。自分は何も知らずにベータを身に付けた。

ただ、裏技を求める気持ちは実は理解できる。

なぜなら2016年のほんの一時期、日本人に対して公定料金を撤廃したことがあり、この時にブータン旅行が結構話題になった。

この時にブータンツアーをやってそれなりに稼いだ旅行会社的には麻薬のように公定料金撤廃を夢見るのだろう。

ちなみに裏技は実はあるし、自分も使ってブータンに行ったことがある笑

というのは、インドとの国境にあるプンツォリンという街はインド側のウエスト=ベンガル州ジャイガオンと一体の双子都市になっていて、歩いて往来ができた。

外国人も当たり前のようにプンツォリンに入り、ブータンの文化を満喫することができた。

ただ、プンツォリンはインド色の強い街だとブータンに詳しい人は言うのだけど。

なぜ過去形なのかというと、ある時から国境に警備員を置き始め、外国人を追い返すようになってしまった。

ブータンの国策を思えば至極当然ではあるものの、いらんことしやがって💢

でも、日本人はブータン人と顔が似てるので個人旅行者であればほぼすり抜けられる様子。

それでも旅行会社としてはコンプライアンス的にもう案内できなくなってしまった😭

ま、プンツォリンに入れたとして、宿泊はできないし、プンツォリンからティンプー方面へは絶対に入れない。プンツォリンを出てすぐのところにある検問で必ず追い返される。

いや、これも過去形だな。今後は追い返されないはず。

それはなぜか。

ブータンはコロナ禍ですぐに国境を封鎖して先月までそれが続いたけど(人民解放軍には勝手に村を建設されてたけど)、9月23日に国境を開いた。

そしてコロナ禍前とは観光政策に大きな変化があった。

大きな点は4つ。

①観光税をこれまでの1泊65USドルから1泊200USドルに引き上げ

②公定料金廃止、旅費は観光税プラス実費に

③パックツアー参加の義務がなくなり個人旅行が可能になった

④上記に合わせて、ヴィザ申請が個人のオンライン申請に変更、取得費用は40USドル

コロナ禍は最大の変革のチャンスだったのに、その前と何も施策を変えていないところがほどんどのなかで、しっかりと変革したことにまずは敬意を払いたい。

日本語の記事はとくに③をきちんと伝えないものが多く、一方的な値上げのように感じさせてしまう点が問題。

ブータンの場合は政府の公用語が事実上英語だから、英語の情報を引っ張ってくる方がわかりやすい。

それにしてもジャカランダ❓キレイだなぁ💜

これ確かに閑散期に3人以上で、今まで同様ガイドやら食事やら全部旅行会社に任せたら、今までの倍はかかるんだけど、個人でバスや食事など全部ローカルなもので済ませれば、特に繁忙期は安くなる可能性がある。

何よりも行動が圧倒的に自由になる。

東京に行ったら浅草と皇居とお台場しか連れていかれない、なんてことはなく、興味を持った鶯谷や大崎や大塚に行ったっていいんだ。

例えばスイスの山岳リゾートだって滞在1日ごとに何万円もかかることを考えれば、国全体がそうだって考えたら意外と常識的に収まる可能性がある。

今後世界中の山岳地帯や離島は1日数百USDの滞在料を取るようになる気がしている。

例えばこことかさ。

そうなってくると、必ずしも値上げとはいえないのではないか、というのが自分の意見。

そしてそれは旅行屋にとっても闘志が湧いてくる制度になった。

先日も書いた話なんだけど、

公定料金は知れ渡ってるから、うちらが手配した金額って公定料金にいくら代理販売手数料を乗っけたのかバレバレなのね。

それって商売として何も面白くないわけ。

だからバンコク経由の空路でのブータンツアーなんてまったくもってやる気がしないし、ブータンも取り扱ってますってあんまり言わないようにもしている。

だってつまんないから。

うちら南アジア業界では、リゾート=ホテルを売るだけのモルディヴと並んで二大モティヴェイションが上がらない国だったんだけど、ブータンはめでたくそこを卒業したということになる。

今までもインドから陸路で入るツアーについてはそれなりに企画・手配の面白さはあったけど、今後はブータン単独でも面白くなりそう🔥🔥🔥

そして従前通りの提案しかできない旅行会社は淘汰されていくだろうね。そういう旅行会社とは付き合わないようにしなきゃ✨

さて、ブータン政府としては大半の旅行者にとっては大幅な値上げになるため、旅行者数を抑制できると踏んでいるようだけど、自分の意見はまったくの逆。

旧制度ですらコロナ禍直前は年間30万人、つまり1日数百から数千人規模の入国があって、ブータンから見ればそれはオーヴァー=ツーリズムだったのだという。

今後は個人旅行がしやすくなるから、むしろ旅行者は増えるのではないかと考えている。

また、旧制度ではディスティネイションのほどんどが空港のあるパロと首都のティンプー、古都のプナカだったけれど、今後は色んな所に旅行者が散っていくと、インフラが整っていない地域ではパンクしてしまう危険性もある。

したがって入国者数そのものも規制すべきだと思う。ヴィザの発給や観光税の徴収から現在国内に何人の旅行者が滞在しているのか可視化しやすいのだから、例えば1日最大1000名までしか滞在できない、というようにしてしまうことは難しくない。

今後どのような改革があるのかも注視していきたい。

それでも「幸せの国」を訪れる理由

どうしてそんな高いお金を払ってでも人はブータンを訪れるのだろうか。

今回の制度改革をもって観光客ではなく「ゲスト」として歓待を受けることはなくなったと考えていい。

もうあなたは王子様、お姫様にはなれないの。

それが気持ち良かった人も少なからずいるし、その面からリピーターになっていた人はもう来ないかもね。

では平民の観光客がブータンを訪れて楽しいことって何だろうと。

ここではひとまず、菅前首相のブレインとしても知られた観光立国論のオピニオン=リーダーであるデービッド=アトキンソン氏の掲げた観光の4つの要素、気候、自然、文化、食事の観点から考えてみたい。

まず、気候だけど「安定しているけど、季節感もある」という点で実はインドなんかより遥かに恵まれている。

次に自然。

海や平原はないにしても、これはもう手つかずの自然、生物多様性がまだまだあって無敵だし、照葉樹林帯なので日本人にとってはどこか共通性も感じる部分もある。

これはターキンっていうブータンの国獣になっている珍獣。一応山羊の遠い親戚。

文化。

先ほどはある程度批判的に書いた部分もあるけど、民族の伝統文化の保存に努めているから素晴らしくいいし、そのベースにある人々も消費行動では狂ってしまっている人々もいるけれど、スレていない人が多い。自然同様に日本との共通性も多く、ブータンにノスタルジィを感じてリピする人々も多い。

また、アッサムから入国することになる東部は少数民族がたくさんいて、多様性もある。これはブータン上級編かな。

最後に食事。

青唐辛子をチーズで煮込み「野菜」として食べるエマ=ダツィは世界一辛い料理と呼ばれ、

それ以外もふんだんにティンゲ(花椒)が使われて痺れる。

それらが好きな人にとってはたまらないだろうけど、そうでない人にも逃げ場はちゃんとあり、辛くない料理もたくさんあるし、特定動物の肉を禁忌にすることもないのでヴァリエイションは豊か。

主食は米で伝統的な赤米のほか、ニシオカ=ライスと呼ばれる白米があり、ブータンの農業指導にあった日本人の植物学者西岡京治がもたらした。ブータン最高爵位ダショーをもらい、彼の死は今話題の国葬となった。米だけでなく麺料理も盛ん。

日本人にとって特筆すべきなのは納豆があったり、松茸が採れたりすること。毎年8月にティンプー近くのゲネカ村では松茸祭りが行われ、コロナ禍以前は日本から板前を連れて行きブータンと日本の松茸料理を食べ比べするツアーもあった。来年には復活するのではないだろうか。

日本と植生や文化に共通性があることもあり、カラシビを除けば総じて日本人の口に合う

東京の代々木上原には日本初のブータン料理店ガテモタブンがあり、『孤独のグルメ』にも登場した。一度そこでどんなものか試してみるのもいい。

以上、観光の4要素から見てもブータンは、特に日本人にとっては魅力に溢れているし、実際ずっと日本人がお得意様だった。

しかしながらきっかけは1つでも多くの国に行ってみたい、でもいいんじゃないかと思う。

そんな人にオススメなのがインド、ウエスト=ベンガル州のシリグリ。

世界遺産ダージリン=ヒマラヤ鉄道の起点としても知られているけれど、至近にブータンのほかバングラデシュ🇧🇩、ネパール🇳🇵があり、4ヶ国に加えて1975年まで独立国だったシッキムの人々が行き交う国際都市。

ここを拠点にすれば1週間で4つの国をつまみ食いすることができる。そのなかから自分に合う国を見つけるのもいいのではないかしらん。

おわりに

ということで今回はブータンの観光政策の変革というトピックを、その背景に広げていくという形で書いてみて、

そして初の試みとして、先にnoteを書いておいてClubhouseで喋るということをやってみた。

ブータンの文化の中身だったり、観光案内といったところには触れられなかったので、それはまたの機会にやろうと思う。twitterスペースの方かなあ。

今日これをUPしちゃえば、明日わざわざnote用に記事を仕上げる手間が無くなっていいね。

今後は準備期間がある程度確保できる限りこの方式にしようかと思う。

それじゃあバイバイクズザンポーラ🧡🐉💛暑寒煮切でしたっ✨







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