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本当は隣の芝は青くない

 人って隣の芝が青く見えてしまう。自分よりも秀でる人を見ると悔しくなったり焦ってしまう。それが自分の原動力になるなら文句なし。ましてやサンキュー青い芝と思うけど、自分を責めるきっかけになってしまうのはもったいないし、そんなことをする必要はない。

 そう思ったのは、ついさっきのこと。先輩ライターや編集者のnoteを読むと、みなさん物書きに対する並々ならぬ想いや緻密な計画性がある。それに比べて私には、ライターとして熱く語れるような想いはない。
 もちろん、クライアントが求める以上のクオリティーにすること、わかりやすく読みやすい文章を書くことを信条として取り組んでいるが、周りの要望に応えられるスキルと経験があるからライターをしているだけ。ただそれだけ。力説するような大義はない。

 こんな私だが、以前は仕事に大義を掲げていた。ライターとして少しでも多く実績を残したかったし、周りから尊敬されるような文章力を身に付けて、世の中にインパクトを与えられるライターになりたかった。たくさんの人を自分の文章で喜ばせたい。だから、クライアントや読者が喜ばせることに躍起になっていた。

 そんな想いが、結果的には自分の首を絞めた。

 自らやりたくてやったことだけど、頑張れば頑張るほどしんどくなった。朝10時から夜中2時まで働く日々を4年ほど続けた。ずっとこのまま働けると思ったけど、緩むことのない仕事漬けの日々は確実に心身を蝕んだ。特にメンタルが不安定になって、仕事だけの人生ってどうなん? と疑問を持つようになった。休日も常に仕事。旅行先や友人と会っていても、隙間時間に仕事。毎日が殺伐としていて虚しくなった。
 それに拍車をかけたのがコロナだ。健康が取り柄だった自分が罹患するとは思わなかった。ただ感染しただけだけど、働きすぎて免疫が低下したのだと思い込んだ。この頃に、仕事で何か大きなことを成し遂げようとか、使命感を持つことを手放した。もっと自分自身を生きようと思った。

 働きすぎて枯渇した心を潤したくて、趣味を持ちたくなった。だから絵画教室に入った。誰かのためじゃなく、自分が本当に書きたいことを書きたくてエッセイを書き始めた。そうしたら、心が潤い始めた。カラカラとした砂漠に水が湧き出るような感じ。オアシスだ。やっと、癒しの時間が私に訪れてくれた。他にも、昼飲みや彼とのお好み焼きパーティー、気の向くまま思いつきの料理をするなど、休日は無理に働かずにその時やりたいことをやるようになったら、特別なことをしていないのに幸せを感じられるようになった。

 今の私は、自分の仕事に大義なんて持っていない。
 でも、すごく幸せだ。

 何かに対して熱い想いを持つことが美徳とされやすい世の中だけど、周りの目を意識しすぎて自分の幸せや心地よさを手放す必要なんてない。今の自分に満足しているなら否定することなく満足すればいいだけ。もっとラクに生きていいのだ。

 隣の芝の青さが羨ましいなら頑張ればいいけど、それは決して義務じゃない。文句言うなら頑張るしかないけども、自分の今に満足しているなら周りがどうであれ、ありのままでいいじゃない。ありのままの自分でいる時に、隣の芝は青くなくなる。自分に対してフラットでいれば、自分の芝が一番青く見えるんだ。


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