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『ひかりの歌』公開記念 往復書簡3(宮崎大祐)

杉田様、

おはようございます。
この手紙を僕が書いているのは早朝なのですが、メールを送信した時間で言えばこんばんは、杉田さんがメールを開く時間でいうとこんにちは、かもしれません。
ともあれ、ここしばらく狭い自室にこもって朝から晩まで様々な文章を並行して書いていたので、いささか混乱しており、返信が遅れて申し訳ございません。

杉田さんが映画を撮り続ける理由にはこういったささやかな生活や現実体験があるのですね。
日常の中からそういった淡く美しい瞬間をすくい出せる眼と記憶にとどめられる感性を僕は心底うらやましく思います。
というのも、僕の黒縁眼鏡越しに見える現実はなんとも変ちくりんで歪んでいて、笑えない風刺画か双極性障害患者の書くグラフィティー・アートのようだからです。
だからこそこうした場が生まれたのかもしれませんね。

さて、当然問いが戻ってくることは覚悟しておりましたが、僕が今も映画を撮り続けている理由とはなんでしょうか。
なんでしょうね。
いつもは「実際の時間を切り取れる唯一の芸術だから云々」「総合芸術だから云々」などと答えているのですが、今回に限りもっと赤裸々な、場合によっては失望されるかもしれないことを言ってしまうと、ずばり「意地」と「食い扶持」だと思います。

さかのぼると、僕がなんとなく映画を仕事にしたいなあと思い始めたのは大学2年生の終わりでした。
まだ2年生だというのに、既に同級生たちはOB訪問だの自己分析だの、次なる受験人生に向けた勉強なのか宗教活動なのかをはじめていました。
防人の子孫のフリをした非常にかたい家に生まれ、さして真面目にものを考えることもなく、場当たり的に受験した学校への進学を中高大と繰り返してきた僕はこの頃、ぼんやりとではありますが、初めて主体的にこの道に進みたいというものを見つけました。
それが映画です。
中学時代、たまたま手にした尖った音楽の影響で、いい加減な人生ではあるものの、奥深くに反抗的な燈を宿していた僕の前に突如現れたアート映画なるものはあまりにもカッコ良く刺激的でした。
内装やグッズが遊園地のように派手なミニシアターに学校をさぼって午前中から通う快楽、TSUTAYA新宿店でいつも貸出中だったレア・タイトルのVHSをようやく借りられた時の悦び。
当時コンビニで手に取る雑誌のほとんどは映画俳優が表紙でした。
自分がある特別な時代の特別なムーブメントに立ち会っているのだといういわく言い難い興奮がありました。
今思うとそれは黄金の6-70年代を経て、80年代の蓄えが加わり、90年代に成熟したセゾン文化の最盛期であり、アートや新しさに少しでも敏感な人ならば誰もがその一部になりたいはず!と叫びたくなるような、強烈な訴求力を持ったムーブメントでした。
映画が時代を牽引していました。
ところが、ひとたび学校に戻ると、髪型をドレッド・ロックにして小脇にスケボーを抱えた自称ハードコア・パンク野郎が厚かましくも隣席に座り、「夢は夢で趣味にしてさー、現実的な仕事探せよ。俺もDENON受けようと思ってんだよね」などと偉そうに説教してきたり、「面白ければなんでもいいんじゃねえ?」が口癖でオエイシスやらレイディオヘッドのカバーバンドをせっせとやりながら女学生とせっせとデートを重ねていた小男が、「内定生保しかもらえなかった!頑張れ俺!こうなったらお前は資格頑張れ!」とか、勢いだけで主語すら不明なしょうもないことを言ってきたりして、そんなわけねえだろうがこのバカチン反動スタンス・パンク野郎が!それとテメー、say hoだかなんだか知んねーけど、俺は今資格どころじゃねえんだよ!これからゲルマン見にアテネに行かなきゃなんないの。大体お前指定校推薦のくせになに今更受験生ぶってんだよ!と僕の反抗心は爆発炎上し意地と反抗の種火はいつしか体全体に燃え広がり、僕自身が火柱になりました。
そんなこんなで、何の役にも立たなかった大学の就職センターの話はさておき、数年後、知り合いのツテでようやく映画業界の末端に入った僕ですが、そこでも毎回のように諸先輩方から「お前なんかが監督になれるわけがない」「あの映画がイイと思えないお前は全くセンスがない。今すぐ映画を辞めると言え」などと叱咤激励され、せっかく晴れの日を迎えたはずの新郎にはじまり、果てはバス停でたまたま顔を合わせたおじさんからも似たようなエールをいただくようになりました。
なんでしょうか?
そういう刺激を与えるフェロモンか何かが出ているんでしょうか?
それから、「自分が出来ないことを人は妬むんだよ」などという西野カナの歌詞にありそうな美辞麗句を遥かに突き抜けた極北で、持ち前のしつこさと運を頼りに10年近く意地を張り続け内的炎上を繰り返しているうちに、僕の意地の業火は核分裂反応を起こしはじめ、まもなく臨界に達したのです。
これでエネルギーは安定的に、永久に供給されます。
それもこれもみなさんが高圧状態を維持し続けてくださったお陰です。
臨界状態に達した副作用として、本当に大切な人や多くの友人、諭吉paperがことごとく去って行きました。
でも、もういいでしょう。
覚悟を決めたのならば。
僕はこれからこの火を神のように崇めて生きていこうと思います。

少し興奮しすぎましたね。
神の火を抑えるのにしばし深呼吸しましょう。

そうして意地を張っているうちに私は歳をとり、体も弱り、野球選手にもなれなくなり、可能性として残っているのはボブスレーか何かくらいでしょうか?という状態になりました。
とにかく、他につける職種がなくなってしまったのです。
映画をやりたくてやりたくて、映画監督になりたくて走っていたつもりが、いつの間にか映画関連の仕事しか出来なくなっていました。
それも高度なことや気の利いたことが出来るわけではなく、他の労働と比べればまだマシという程度の技量です。
そんな無才な私を哀れに思ったのか、不思議なことに映画がらみの小さな仕事を下さる方が年に1人か2人現れるようになりました。
それが、「食い扶持」と言った意味です。
映画をやりたくてやりたくて、いつか映画監督になりたくて走っていたつもりが、いつの間にか映画で稼いだ金でしか暮らせなくなっていました。

とまあ、こんなことがございまして、今に至ります。
私の人生は総じてあまりに奇妙奇天烈なので、いまだに何がどうなっているのか自分でも分からなくなることがあります。
だから私はこの世界への恐れを忘れたことがありません。
唯一、人より強いと言えるのは、この不確かさへの絶対的な確信なのかもしれません。
杉田さんがご指摘下さったように、私の映画にまなざしが、視点が多く登場するのは、私が世界を恐れていることの証だと思います。
私の主観は当然私の主観にしかすぎず、それは劇中のキャラクターの主観ともそれを演ずる役者の主観とも違います。
それらの視点とそれらの間にあるまなざし、その他考えうる限りのその場を漂っているまなざしを映画の中で織り交ぜることで、スクリーンの前にいらっしゃる方々に立体的でポリフォニックな世界像を見出してもらいたいという狙いがあります。

「ひかりの歌」はそういう瞬間に満ち溢れているような気がしました。
私はそこが好きでした。
やはりそういう狙いを持って演出されているのでしょうか?

支離滅裂、ジェットコースターのような内容で申し訳ございません。
罪悪感ゆえ、ここで一旦筆を置きます。

あ、そういえば最後に。
平成最後の年、大和市と綾瀬市にまたがる厚木基地から米軍は撤退し山口県に移動しました。
あくまで書面上ながら、最近は飛んでいるのも自衛隊機ばかりになり、米軍機はほとんど見かけなくなりました。
居なければ居ないで寂しいもんですね。
人間ってやっぱそんなもんなんですかね。

そして今日基地のそばを散歩していたら、見たことがない角度から自衛隊機の腹を見ることが出来ました。
この小さい町で、あの輸送機を見ていた人は一体何人くらいいたのかな。
きっと、そういうことなんだと思います。

宮崎大祐


ひかりの歌 公式サイト

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大和(カリフォルニア)公式サイト


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