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写真をやめる

写真をやめた、写真を撮るのをやめた。

やめたやめたやめたやめたやめたやめた。

少しだけ。

何を撮るべきか、自分が何を言いたいのか分からなくなった。

僕にとって写真は、自分自身の表現ツールであると同時に句読点みたいな役割があって、それが自分の中でとても心地よいものだった、

からずっと撮ってた。

でも去年の9月に人生で初めて日本を出て、この地で暮らし始めた時から感じていた少しの違和感に、ここにきて目が離せなくなってしまった。自分の立ち位置、習慣、言葉、視界の変化に置き去りにされている。空中分解!みたいな。多分僕も色々思っていて、それを言語化するのは難しいことではないんだと思う。でも、やはり誠実さにかけるというか、身体的な感覚が合致しない。もちろん、体を慣らす意味も含めて色々撮ってみた。でもなんというか、バッティングセンターで一回もヒットを打てずに次の人に交代する感覚。

「じゃあ打てるまで!」、と言いたくなってるし、毎日心の中でそう呟いてみるのだが、そう簡単なものじゃない。

写真を撮る、シャッターを押すという行為は、さしずめ狩猟のようで。

平常心でいるつもりでも、その行為で少なからず自分の何かが削れる。

撮れば撮るほど、自分が追い込まれていく。しかもそこに確固たる思いは存在しない。こんなことをしている暇ではないのかもしれない、とも思う。

今まで写真を撮ってきてこんなことはあまりなかったように記憶しているし、これは写真が手段になってしまったからかもしれない。

これはどうにかしなくては!とノートを開き、整理しようとあれこれ考えながらペンを走らせる。少しすっきりはしたが、撮る気にはならない。

だから少しの間、撮るのをやめてみている。

そしてもう少し落ち着いたなら、最も身近なものや人、感情から撮ってみる。

置き引きされたあいつ、熱を出したあいつ、大学を辞めたあいつ、坊主にしたあいつ、寝起きが悪いあいつ、浪人中なのにバイトしてるあいつ、細いあいつ、27歳独身のあいつ、勝手に暫定の結婚相手のあいつ、みたいな人たちを。

今は嘘だらけだ。イモ!

しかしながら、撮らないと決意した途端、撮りたいという気持ちが同時に煽られるのも変な話だ。

写真写真写真写真写真写真写真写真写真写真

多分、もっと人間をしなきゃいけない。

犬にでも噛まれてみるか。

人間は犬に噛まれるほど自由らしいし。


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