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はじまりの京都文学レジデンシー〈1〉:吉田恭子

このエッセーは岩波書店『図書』2023年4月号に掲載された
「はじまりの京都文学レジデンシー」に大幅に加筆したものです

2022年10月21日、第1回京都文学レジデンシーが終わりを迎えた。日本発の国際的文学レジデンシーに、チェコ、シンガポール、ニュージーランド、ベルギー、米国、日本の作家と翻訳家計6名が集い、3週間京都に住まい、執筆に専念するかたわら、京都の街をとにかく歩き回り、ともに飲み食い語りあい、互いのことばを分かちあった。初回レジデンシーは、実行委員の私たちが予想もしていなかった形で実現したのだが、ふたを開けてみれば、文学レジデンシーの趣旨に賛同してくれる6人の作家たちの人柄と文学への熱意が共鳴しあって、私たちの想像を超えるクリエイティヴな場が生み出された。期間中、私は何度も驚き、幸運に感謝したものだった。けれど、思い起こしてみれば、文学的瞬間とのめぐり逢いは、いつだって不意を打たれ予想を裏切るものだったではないか――意識の中に新たな見晴らし場が開ける瞬間が訪れるような。

準備期間中、文学レジデンシーを日本で開催することの「メリット」を説明するように求められることが何度もあった。そのたびに違和感を感じ、ことばに詰まってきた。もちろん書籍の売上に貢献するだろうし、長期滞在する海外作家がかならず日本や京都の魅力を発信してくれるだろう。でもそんなことは実はほんのオマケ的な役得(メリット)でしかない。それだけを当てにして世界中から作家を呼び寄せるのだとすれば、なんと「コスパ」の悪い事業だろう!「メリット」ということばを口にした途端、私たちの思考も想像力の範疇も、あらゆる価値が金銭に換算できると前提した紋切り型的フローチャートの枠内に収まってしまう。もし今レジデンシーの「メリット」を問われるならば、こう説明するだろう――本当の真価(メリット)は、誰にもあらかじめわからない価値の創造なのだ、と。人が芸術に文学に、これほど情熱を、知恵を、時間を、財を投入するのは、想像を超えたヴィジョンを共有したいと欲するからだ。文学レジデンシーは、個々の参与者、個々の作品さえもが制御できない包括的・有機的営みなのである。

ここへと至る経緯を報告するにあたって、まずは個人的な体験から話を始めることをお許し願いたい。私は京都大学でアメリカ文学を学んだあと、ウィスコンシン大学ミルウォーキー校英文科で創作を専攻し2001年に学位を取得した。つまり、クリエイティヴ・ライティングを学んで英語の短編小説集を博士論文として提出したのである。日米で就職活動を行い、慶應義塾大学文学部の英語科に最初のポジションを得て存外にありがたかったが、その一方で母語の環境に戻って英語での執筆を続けられるか心中複雑だった。そんな折、2005年度の在外研究中にアイオワ大学の国際創作プログラム(IWP)に参加する機会を得た。これが私のはじめての文学レジデンシー体験である。

アイオワ大学には、全米、いや全世界に名を知られている大学院創作科、通称「ザ・ワークショップ」がある。作家・詩人を輩出し、ハーヴァード・ロースクールよりも入るのが難しいなどと冗談交じりに紹介されたりもする。

アイオワ大学にはもうひとつの創作プログラムがあって、それが国際文学レジデンシー、IWPだ。大学院創作科のディレクターも務めたことのある詩人ポール・エングル(1908-1991)が、米国国務省と諸企業の協力を得て1967年から始めた。世界中の作家、とりわけ初期はアジアと共産圏の作家を招聘し、キャンパス内に長期滞在させ、大学の知的コミュニティで学ぶと同時に貢献してもらい、完全に自由な執筆活動のための充分な時間を確保する。レジデンシーとは、芸術創作や人文・自然科学研究専念のために大学キャンパスなどに長期居住する制度をいう。歴史は古く、今日でこそ主要な場は大学に移っているが、たとえばレオナルド・ダ=ヴィンチがシャルル一世の保護のもとクロリュッセに滞在したのもレジデンシーだといえるだろう。

私がIWPに参加した2005年は、31カ国から37人の作家がミシシッピの支流アイオワ川のほとりに集まった。そこで、現代の文学執筆制作の現状は、もはや国民文学の枠組みには収まりきれないことに驚いた。インド出身のマニ・ラウは、ニュージランドから香港に渡りビジネスエグゼキュティヴとしての経験を経てラジオパーソナリティの仕事の傍ら英語で形而上詩を執筆し、それがラテン語に翻訳されることを望んでいた。彼女はその後ラスベガスの創作大学院で学び、功徳し、結婚し、インドをフィールドとする人類学者となり、バガヴァッド・ギータを翻訳することになる。モロッコ・ベルベル系のオランダ人作家サイード・エル=ハジ、トルコ系二世のドイツ人作家シェルコ・ファター、南アフリカからオーストラリアに移住した詩人ジョン・マティア、サウジアラビアで英語で詩をかくナディア・アブドゥルバジャール……。要するに日本に住んで英語で執筆することは何ら特別なのではなく、今世界文学で起こっている現象の典型的な一例にすぎないことがはっきりとわかったのだった。まるで孤島でたったひとりで誰に届くともなく執筆していたように感じていたのが、アメリカ中西部の人口わずか5万人のアイオワシティに来て、仲間たちに出会った。拡大家族ができた瞬間だった。アイオワシティの市民はわが町が全米一の文学都市であることに誇りを持つにとどまらず、あらゆる文学イベントを満席にした。詩人に紙と鉛筆を与えて食べさせるだけでこんなことになるなんて、こんなに安上がりかつポテンシャルを秘めた文化事業はないのでは、と思ったものだ。

IWPは私のキャリアを大きく変えた。シドニーの文芸出版社とつながり短編集を出版した。日吉で詩人や学生たちと朗読会や朗読パフォーマンスを行なった。アジア・太平洋やイギリスの文学祭やレジデンシーに参加する機会が増え、拡大家族のネットワークは広がった。ところが国際的な文学祭に日本語作家の姿はなかった。世界最大の文学祭と呼ばれるインドのジャイプル文学祭には、多和田葉子さんが2016年に主賓として招待されたが、2017年に私が参加したとき、ほかに日本人作家や文化行政者の姿はなかった。どこに行っても、主催者や文化行政関係者は日本からの参加を渇望していたが、そもそも関係者同士のネットワークがない状態だった。

2014年に立命館大学に職を移った私は、ほぼ20年ぶりの京都で、西陣を自転車で往来しながら、日本で文学レジデンシーをやるならば、ここしかないだろうと勝手に妄想を膨らませていた。小さな町家の二階に詩人が長逗留して、一階が人の集う場となり、パンとことばを分かちあい、ときには朗読会を開く。そんな、こじんまりしたレジデンシー。5年、10年、数十年とやるうちに、撒いた種から驚くような花が咲くことが想像できないですか?誰かやらないかな〜? 酔っ払うとそんな妄想を口走るのだが、「吉田さんがやればいいでしょう」と返されると、「そんなめんどくさいことはやりたくない」。そう、私は面倒くさいことが何より面倒くさい質なのだ。

ところが、2020年の2月、在外研究で滞在中のオックスフォードで出会った作家で近代日本文学研究者の澤西祐典さんに(酔っ払ってもいないのに)同じ話をすると、澤西さんはバンビのような大きな瞳を輝かせて、「そんな面白そうなこと、ぜひやりましょう」と即答した。それから早くも2週間後、龍谷大学の学長に企画を持ちかけたとのメールが澤西さんから届いた。さらには、京都市芸術センター、京都市文化企画課、企業へ……次々と声がけする澤西さんの行動力で、妄想は徐々に現実に姿を変えていく――。

(つづく)



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