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こだわりは大人になるまで持っていて

「そんなに気にするの?」
「すぐこだわる」
というような言葉を受けて、引っ込めてしまった考えがたくさんある。

わたしにとってこういうセリフは「責められている」という感覚がある。


え、気にしちゃだめなの?
そこ言っちゃだめなの?
そこが気になるわたしはおかしいの?

本当はもう少し我が強い人間だったんじゃないか思う。(人間なんてみんな我が強いとも思う)
けれど、学校とか友人関係、家族との時間の中で、消し去ってしまった自分というのがいる。

その証拠にリアルの私を知る人が、わたしについて我が強いとか個性が強いとか思う人は少ないんじゃないかと思う。(聞いて回ったことはないけれど)


それは私の問題だし、消し去った自分が自分の中にいたのかもしれないと気付けただけでもいい。なのに、なのに、やっちまった。

娘の「ちゃんと」

小1の娘は、繊細というほどでもないけれど時に「え?そんなに?」と驚くくらいにこだわりを発揮する。こだわりというよりも「ちゃんとしたい」という感じで捉えていた。


でも、それは彼女なりの大切なこだわりなんじゃないかと気づいた。


というのも彼女は2歳ごろから「ちゃんと」にこだわる人だった。
バラバラの本があれば背表紙をきれいに揃えたり
ぐちゃぐちゃの洋服を美しく畳めるまで丁寧に畳んだり
そんな2歳います?


小学生に上がり、その「ちゃんと」がいろいろな方向で発揮されるようになってきていた。

持ち物に「ペットボトル」とあれば、本数がわからなくて当日に泣きさけんだり(一本でもいいし、忘れたって先生怒らないよ。たくさん必要な場合は先生も何本って書いてくれるよといくら説得してもだめで、とりあえず5本持たせたら落ち着いた)

絵を描くのも自由に楽しめるといいのだけれど、お手本のようにうまく描けないと怒ったり、泣いたり。

他にもエピソードはいくらでも浮かぶし、小さな子だったら普通のことだとも思う。でもその上手くできない事、に対しての怒り具合、悲しみ具合がなかなかの激しさを持つなぁなんて思っていた。


だれだって間違うを受け入れてほしいという期待

彼女の通う小学校には、読書ノートという先生方なのかどなたかが作ってくれている手作りの小冊子がある。一冊100冊まで何を読んだのか、著者は誰か、読んだ日、というようなことを書けるようになっている。

100冊読み切ったら新しい読書ノートがもらえる。
コピー用紙で印刷し、ホッチキスで留めているとても素敵なものです。


そのページ数が1枚多かった。つまり普通なら100冊分しか書けないのに110冊分書けるようになっていた。

ついつい3歳年上の兄の場合だったらなんてことを考えてしまうのだけれど、彼ならきっと「10冊多く書けるなんてラッキーやね!」と言えばおしまい。「ほんまや!」とすぐ受け入れてくれたと思う。


でも娘は違う。

「数が合わない」なんで?どうしたらいい?と泣き叫ぶ娘。
しまいには怒り出す。

最初はていねいに説明していたし、作ってくれた人だって間違うよ、手作りやもん。ってあらゆる角度から話してみた。なかなか落ち着かない。わたしがキレた。

なんでそんなに怒る必要があんの?!間違うことだってあるやろ!


あぁ・・・・


違う意味で、母が怖くて泣く娘になってしまった。

オトナの世界にある、グラデーションや矛盾を受け入れられない娘に腹を立ててしまった。娘は、枚数多く作った誰かに対して怒っていたわけじゃない。



こだわりはいい。大事にしてほしい。それって才能につながっている。

でもそのせいで誰かを責めたり、傷つけたりしたらいけないよ。ただそれが言いたかっただけ。

これも私の勝手なこだわりかもしれなくて、それを娘に押し付けて傷つけてしまった。難しいなぁこだわりを持ち続けることって。





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