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学校でつまずいちゃダメかな。

数年前に本屋さんで見かけた
雑誌のタイトル。

「学校でつまずかないために」

・・・って中身は見なかったけどね。

それを見た当時は
美沙がめっちゃくちゃ
つまずいていたからね。

なんなら、
つまずいちゃいかんのかーい!!!って
突っ込みいれたほどよ。

漢字の読み書きできない、わからない。
6が書けない。
国語のテストは100点中10点。
文章書いても
何を書いているのかわからない。
先生の話も上の空。
・・・でもそれは
聞いていないんじゃない。
何を聞いたらいいのかわからない、
そんな世界を見ているんだね。
掛け算。
おそらく割り算も、だろうなぁ。

ってあげていったらきりがないけれど。

背中に「バカ」って書かれた紙を
貼られていたこともあったね。

陰でこそこそ、「おばあちゃん」って
呼ばれていたっけな。
(斜視の矯正用のメガネは
 遠視のメガネで、
 なおかつ斜視の度合いが
 きつかったので、
 そのレンズの度数は大きく。
 するとレンズは重いので
 自然とメガネが
 ずり落ちてるから・・・なのか?)

「算数わからないみたいだから
 ほっといちゃってるのよね」
とか先生に言われたし。

・・・あと、なんだろう。

小学生の学校生活の中で
おそらくどれも
勉強のできない・わからない子の
あるあるな話、かもしれないな。

・・・でもね。

つまずいたおかげで
世界が広がったのよ。

私もまさか、
こんな世界があるなんて
思いもよらなかったけど。

「は」が「わ」になるからこそ
描けた物語がある。


自分の頭の中の世界を
うまく説明できなかったからこそ
描けた絵がある。


こんな絵を見ていて・・・
そりゃ、学校の普通の教室という世界は
美沙にとっては
とっても狭い世界だったんだろうなぁ。

そしてこれに気がついたのは、
そんなつまずいていた時間から
何年も経ってからの今だしね。

大学3年生の時の課題。
私ほんとこの世界が好きでね。
キラキラしているおもちゃ箱を見ているみたいになるのよ。
だから、発見するのが大好きな子と一緒に手をつなぎながら見て見たいなと思ってる。


何とかしなきゃといって、
そう簡単になんとかなる世界・・・
でもなく。

いや、
そりゃどうやったって
できるわけないな、
というのが
今の美沙が美沙でいる証なんだと
ようやく思えた今。

それはたまたま
学校で求められる答えが
出せなかったというだけの話。

そのやり方だと、
みんなと違うから。
そのやり方をOKにしてしまうと、
1人特別扱いになっちゃうから。
そのやり方だと、
他の子にズルって言われちゃうから。
そのやり方だと、
まわりの子たちに比べて
レベルが下がっちゃうから。

・・・って言うけども。

たかだか子どもでいられる
ほんの数年という時間に
それを制限することに
何の意味があるんだろう。

みんなと同じやり方じゃ
できないという、
自分ひとりの力では
どうにもならないものを
持っているそんな子どもに、
1人特別扱いだの、
ズルだの、
そんな何かの都合の責任を
押し付けてどうしようというのだろう。

だからこそ、
親ですらもどうにもできない
そんな壁が
立ちはだかっているからこそ、
そんなすぐすぐ
親が思い描いているような答えなんて
出ないんだよ。

焦って出そうなんて
思わなくていいよ。

誰も早く早く答え出しなさいよ、
なんてこと言ってないからね。

子どもはいろんなものを
見せてくれるけど、
それはお母さんが見ている
心の中を映してくれている
だけの話だよ。

ちゃんと気づいて。
ちゃんと見て。
素直に見てね。

決して何かが
お母さんというあなたを
責めてるわけじゃないよ。

・・・って、
やっぱりそんな葛藤の最中にいた
当時の私に伝えたところで、
それを素直に聞くわけないのは
誰よりもわかってるよ。

うん。
この私、だからね。

たから、当時の私に伝えるならば。

とことんそんな自分の思う
お母さんやり切ったらいいよ、
かな。

ダメだと言われるなら
どうしようかと
試行錯誤をしたらいいよ。

そのおかげで、
気が付けばそれだけじゃないものを
見る力をわが子に、
ではなく自分についてるからね。

そしてなにより、
そんなつまずいた世界を
見せてくれたおかげで
たくさんの大事なものに
気づけたんだよ、
ってこともね。

すっごい葛藤したけど、
それは私にしかできないものだったよ。

私だからそんな葛藤だったんだよ。
それが私が私であるための証
だったんだよ。

周りの大人に
なんでわかってくれないんだろうって
思ったけど、
そりゃわかるわけないんだよって。

ほんと、よく闘ってるよね。
すごいよね。。。

それしか言えないんだよ。
それしか言わなくていいんだよ。

・・・って、
私はこのnoteでタイトル
変えながら
何度も同じ話するけどね。

何度でも同じ話するよ。

ふふふ。

だから、大丈夫なんだよ。

安心して葛藤したらいいよ。

子どものつまずきに
一緒につまずいたらいいよ。

どうしてこうなの?

なんでそうなの?

なんでそうじゃないの?

みーんなあり。

子どもがつまずいたことで
見せてくれる世界がなんなのか。

そんな答えを知っているのは
自分でしかないからね。

ちゃんと子どもがありのまま、
その答えを見せてくれてるからね。

ってものを、
私は私の角度でたくさん見てきたよ。
だから今、私は私の答えを
話しているってことなんだ。

これをやったらいいよ、もない。
なんでそれやらないの?もない。

みんなみんな
自分の角度でものを見てるからこそ、
その角度、尊重したいじゃん。

その角度尊重してほしいんだよ。

・・・いや、尊重して
ほしかったんだよね。

・・・私はね。


私にとっての子育ての大事なことは
全て私がつまずきだと思っていた
娘たちのやっていたことに教わった、
だわね。

私ってなんなのか、
それを教えてくれたのも
娘たちから、
だったわね。

母を生きながら、
結局自分がどう生きてきて、
これからどう生きていくか、
それを教えてくれたんだわね。

だから今
ニコニコしながら
こんな話ができるんだよ。

ってこと、
いろんな角度から見た話、
これからもしていくよ。

この私だから、
めっちゃくどいけど。

この話聞いたよね、
が何度も出てくるけど。

簡単に言ったら、
単に円だと思っていたものを
見方を変えたら円錐だった、
みたいな話をしていきます。

子どもがつまずくことが、
こんなにもお母さんとしての
私にとって、
とても豊かな世界
だったんだよって話、ね。

でもって、
それは子どもに
発達障害があろうとなかろうと、
「子育て」というベースは
何も変わらない。

どっちが・・・なんて世界はなくて。
どっちも・・・な世界が
ちゃんとあるんだよ。

今日もここまでお付き合いくださり
本当にありがとうございました。


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