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山椒魚は悲しんだのか?

 井伏鱒二の『山椒魚』を読む。
 正直言って、私は文学に詳しくないし、井伏鱒二が何を伝えたかったのか、この作品が文学的にどんな意味があるのか、さっぱりである。その上で感想を語るのであるが、要するにこれは私の感想に過ぎない。それが正しいのか誤りなのかなど、はっきりと言えばどうでもよいのである。無論、それを主題とする者もいるだろうし、文学論争のようにどちらの主張が正しいかを言い争うのも、私は価値あることだと思っている。しかし、これは「主張」ではなく「感想」であり、もっと言い換えれば私自身がいずれ読み返すかもしれないと思っている「日記」である。だから、そこに正しさという物差しはない。私は私が満足すればそれで充分である。

 さて、前置きが長くなった。
『山椒魚』だが、タイトルにあるように私は読み終えた後で、「本当に山椒魚は悲しんだのだろうか?」と思った。
 山椒魚は最初は確かに悲しんだかもしれない。が、最終的には蛙という、自らが生み出したものかもしれないが、ある種の同胞のような存在を得たことで、少し救われ、何なら岩屋の生活を楽しんでいけるのではないかと希望を得たのでは、と思っている。
 いや、もしかすれば、山椒魚は最初から悲しんではおらず、悲しんだふりをすることで、悲劇の主人公らしい自分を演じることで、岩屋の生活を充足させていたのではないだろうか。

 そんな疑問こそがタイトルの由来である。私は山椒魚が本当に悲しんだのか怪しいと睨んでいる。こいつ、実は悲しんだふりをしているのではないか? 実は読者を騙そうとしている役者なのではないか? そんなことを考え、最後に蛙とのやり取りを経たことで、少し自分の本音をぽろっと言ってしまった。そんな印象を覚えたのである。
 もちろん、こんなものは憶測に過ぎず、井伏鱒二がどう考えて書いたのか、文学的にどんなメタファーになっているのかなどとは、まったく的外れであろう。
 が、大事なのは私の中の『山椒魚』である。作品を読んで感想を抱いた時点で、その感想は私のものだ。井伏鱒二から受け取ってはいるが、もう受け取った以上、私のものとして消化するしかないのである。

 ふと考えてみると、部屋で一人、文章を書いている自分は山椒魚に似てるかもしれない、などと、漠然とした馬鹿げたことが思い浮かぶ。山椒魚は岩屋から出られなかったが、私は部屋から出ていない。あくまで「出ていない」だけで「出られない」わけではないのだが、それで孤独を悲しんだり、自分に自由はないのだというふりをするとしたら、どこか山椒魚の役者然としたやり方に似てるではないか。山椒魚よ、もしかしたらお前は本当は岩屋から出られるのではないか? その気になれば、別の抜け道を探すことが出来たのではないか? そうすることをせずに悲しんだふりをしているとしたら、何となく自分の中の天邪鬼めいた部分がぞわぞわと撫でられた気分になって、落ち着かないやら回顧するやらである。

 さて、今回は井伏鱒二『山椒魚』についての感想を記した。数年後、十数年後、これを読み返したとしたら、私はきっと別の感想を抱くだろう。もしかしたらもう少し井伏鱒二に詳しくなって、「なにを的外れなことを言ってるんだ」と、どこぞの文学青年みたく鼻で笑うかもしれない(出来ればそうならないことを祈る)。

 私は山椒魚ではない。
 悲しんだふりはせず、自分に出来ることを探してみよう。

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