2010年4月ここから始まる。

長女が生まれた。

妹の長男(私からみて甥っ子)2歳になった一週間後だった。

初孫である妹の子の誕生祝いと、私の出産のサポートのため母が宮城県気仙沼市から上京していた。

予定日より一週間早く娘が生まれた。東京は異常気象で4月に雪が降った。東京で4月に雪が観測されたのは40年ぶりだとか。

39週での正常分娩だったが2160グラムという小ささで、寒さもあって保育器に入ってた。

娘は、小さくて母乳を吸うのも下手だったが、熱心に指導してくれる助産師さんたちに助けられ、体重をしっかり増やして退院できた。


当時は、電車で20分離れたところに妹家族が住んでいた。妹は働いていたので、母が甥っ子の面倒をみたり、私の家で家事をしてくれ、5月の下旬まで母は東京にいてくれた。

5月の半ばには、父が一人で気仙沼から東京に遊びにきた。5月の東京はもう暑いよとアドバイスしたがジャンバーを着て現れ みんなで笑った。

2歳のやんちゃな甥っ子と、生後1ヶ月の娘を抱っこした父は幸せそうに笑っていた。

その日の夕飯は残していたし、お酒の進みも今思えばいつもと違っていたようだったが、父が具合悪そうには見えず、

「父ちゃんは1人で大丈夫だから、姉ちゃん(私)とこもう少しいてやれー」

といって1人気仙沼に帰って行った。

私は、これが父との最後の会話だった。

この後、6月に母が気仙沼に帰る。妹もその後甥っ子を連れて気仙沼に行った。

私は、聞かされてなかった。

7月に父が亡くなる直前まで

気仙沼の実家の隣には母方の祖母が住んでいる。その祖母は母乳が何よりも大事だと考えている人で、私への配慮で、私には伏せるよう母に言っていたそうだ。

脳天気に、娘の可愛い写真をメールで送ったり、電話をする私に、打ち明けられない母は苦しかっただろう。

娘2人が結婚して出産し、孫2人。離れていてもきっとしょっちゅう会える!父と2人の生活はもっともっと充実したものになる!そう幸せの絶頂で気仙沼に帰った母を待っていたのは、手の施しようがない末期の肝臓ガンを患っていたにもかかわらず、自分の健康を疑わない父だった。

そう、父は病院にほぼ行ったことかない健康に自信がある人だったのだ。

この父は昭和12年、樺太生まれの当時73歳。母とは16歳離れている。7人兄弟の末っ子らしいが7人の名前を全員は言えなかったり、友人が1人もいない… またドラマティックなエピソードが多いので詳しくはおいおい…

7月22日、妹が甥っ子の通院の都合で東京に戻ってきて、その日の夜「一緒に気仙沼に来て欲しい」と打ち明けられた。

妹の旦那さんが運転する車で、夜中気仙沼に向かうことに。

私はそれでもわかってなかった。入院したという父の看病に疲れた母を助けるために行くんだと。

入院したといっても、夏には退院して、気仙沼のみなとまつりでみんなで花火を見るんだと。

疑ってなかった。





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