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キルギスからの便り(37)バーニャ

 先週金曜日、授業が終わった夕方、意を決してバーニャ(баня)ヘ行った。バーニャはロシア式サウナのこと。サウナブームの日本で有名なのはフィンランド式だが、ロシアもサウナの長い歴史を持ち、そしてキルギスも旧ソ連だったことからサウナの習慣はある。

 4年前までのキルギス滞在中は、風呂のないシャワー生活が続いてもそれ程、苦にならなかったが、今回はこちらへ来て1か月もたたないうちに湯船のない生活に我慢ができなくなった。
 コロナ禍以後の日本で、ゆっくり湯船につかることや温泉に入ることの喜びを覚えてしまったらしい。

 シャワーだけでは体の汚れが完全に落ちない気がする上、精神的にも、もやもやしたものがたまり続けている。こちらでの生活で特別に嫌なこともないし、辛い環境に置かれている訳でもない。むしろ4年ぶりに再会した人達や新しく出会った人々の想像以上のやさしさに感謝している。

 だが、母国語で意思疎通できないこと、教えている子どもたちの教育環境が日本とは大きく異なることへの無意識のストレスが、1日に0.001cc位ずつ蓄積されていて、それが澱のように心のどこかに漂い始めていた。
 体の汚れも心の澱も一旦すっきり洗い流したい。だが日本と同じ湯船の風呂に浸れない。となれば、バーニャしかない。
 が、バーニャへ行くには少々ハードルが高かった。

 裸にならなければいけないからだ。こちらの女性は、実にかっぷくが良く、私のようにふくよかさとは程遠い、棒のような体形は珍しい。やせているのは不健康と思われるからか、会う人ごとに「もっと太りなさい」と言われる。服を着ていてさえそうなのだから、バーニャへ行くともっと体形はあらわになり、キルギス初年度にサウナ室で汗をかいていると、たびたび好奇の目で見られて、見ず知らずの女性たちから「太った方がいい」と注意されたものだ。

 そんな経験が頭にあるから、バーニャが徒歩10分の場所にあっても行くことを躊躇してしていたが、ついに我慢できなくなり、学校の児童たちが下校するやいなや、タオルと飲料水、木綿の手袋、石鹸、着替えをバッグに詰めて早足でバーニャへ向かった。

 受付で値段表示を見て少々おどろいた。500ソムになっている。日本円にして800円程。記憶は定かではないが、以前は250ソムか300ソム程だったように思う。どこへ行っても物価は高騰していて、バーニャも御多分に漏れず。お風呂へ行くのに全財産を持ち歩く必要もないと思って小銭入れに最低限のお金だけを入れて来たけれど、代金を払ったら、帰りにミネラルウォーターを買うお金も残らなかった。

 平日だからか、脱衣室はひっそりしていたが、入口のドアを開くと、そこにはやはり、かっぷくの良い先客が2人、キルギス語で大きな声でしゃべりながら体を洗っていた。
 バーニャの正式な構成は知らないが、私がいつも利用するバーニャは、シャワーブースと水風呂、垢すり用の台、そしてサウナ室に分かれている。シャワーブースのシャワーは高い場所に固定されているので、できれば垢すり台のそばの蛇口についているホースで体を洗いたいが、先客2人が利用中なのでシャワーで我慢した。

 体を洗っていざ、「開け放し厳禁」と貼り紙のされたサウナ室の木の扉を開くと、想像以上の熱気だ。「暑い」より「熱い」。誰もいないので、最上段3段目で布を大きく広げて横になって、目をつぶった。先週まで風邪をひいていて体力が落ちていたので、耐えられるか少し不安だったが、むしろ鼻や喉が気持ち良く、じわじわと快適になってきた。

 しばらくするとサウナハットをかぶった先客が入ってきて、ラジオ体操のような動きを始めた。いつ来てもそうだが、バーニャの利用者たちはおとなしく座っているだけでなく、サウナの部屋で自由気ままにふるまってる。体操に専念する女性の目には棒のような外国人の姿は映らなかったようで、「太りなさい」の指摘もなくほっとした。
 サウナハットといえば、キルギスは羊の国でフェルト製品の生産地。だからサウナハットももちろん純粋なウール製だ。

バザールのフェルト製品売り場に売られていたサウナハット

  調子に乗って汗をかき、のぼせても困るので一旦、部屋を出ると、垢すり台の蛇口ホースが空いていたので、すぐに利用した。垢すり台自体は使わないし、本格的な垢すりを自分でする気はないが、汚れを落とすという目的を果たすため、木綿の手袋でしっかりとこすった。 

 キルギスでは自宅にバーニャを備えた家庭も少なくなく、かつての私のホームステイ先にも洗面室の横にバーニャがあって、週末の午後になると家族が順にバーニャに入っていた。私は一番最後の夕食後に利用していたのだが、その家のおばあさんが一度、私のバーニャ利用中に突然に入ってきて、タオルを差し出し、垢すりをしなさい、力を入れてこすりなさい、と半分命令調で言ってきたことがある。 
 当時の私は日本でもほとんどサウナへ行ったことがなかったし、ましてこちらのサウナの流儀など何も知らなかった。だから言われることの意味もよく理解できなかったのだが、バーニャでは汗をかいて皮膚がやわらかくなったところで、肌をこすり、垢を流すらしい。もちろんサウナ部屋の中でこするのは禁止で、シャワーブースや体を洗う場所で行う。 

 調べてみると、垢すりは単に汚れを落として肌をきれいにするだけでなく、体臭の抑制にも効果があるとのこと。確かにキルギスの人たちは日常的に肉をたくさん食べるが、体臭を強く感じたことはないし、オーデコロンや香水を使っている人も少ない。もしかするとバーニャの垢すりに関係があるのかもしれない。ホームステイ先のおばあちゃんの「こすりなさい」事件があって以来、バーニャでは垢を落とすことに時間をかけるようになった。 

 サウナ部屋とシャワーを繰り返すこと4回程の後、低温のシャワーで締めくくった。水風呂に入れば効果が高いのだろうが、一度も入ったことがない。自分でも理由は分からないが、プールのように見える広い場所へ足を踏み入れることをなぜかためらってしまう。 
 脱衣室へ戻って時計を見ると、受付でお金を払ってからおよそ1時間が過ぎていた。バーニャの滞在時間として長いか短いか分からないが、少なくとも体の汚れ落としの目的は達成した。それにサウナ室の最上段にいる間は、何も考えられず頭が空になるからか、熱気で心の澱も少しは解けたように思う。こうして澱の量を減らしておけば、積もり積もって心を崩壊させる恐れも回避できそうだ。 

 そして、それまで風邪の名残でだらだらと続いていた咳や鼻水がその日以来、ぴたりと止まった。治癒の時期と重なっただけなのかもしれないが、バーニャのおかげ、と思えば値上がりした料金にも満足がいく。 キルギス滞在中にあと何回バーニャヘ行けるか分からないが、現地の文化をまさに肌で感じる機会だ。楽しんでおこう。

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