春の下僕

 俺は子供の頃から猫が好きで好きでたまらない。暇さえあれば、YouTubeで猫を見て楽しんでいる。
 中でも特に好きな猫は「春の下僕」さんと暮らしている元野良猫の春太郎君だ。
 「春の下僕」さんは女性だという以外どんな人かわからないが、立ち居振る舞いがおっとりしていて、春太郎を撫でる手が愛にあふれている。
 彼女は一人暮らしらしく、春太郎君のためなのか家の中には物が少なくてとてもスッキリとしている。部屋を飾るものといったら、壁にかけられた鳩時計と、いわさきちひろの絵が二枚だけ。いわさきちひろの画集を買ってみたら、猫が描かれている絵が多くて、嬉しくなった。「春の下僕」さんの部屋にある絵は白い猫の絵と、女の子と白い猫が描かれている二枚で、どちらもすごく可愛い。早速俺もその二枚をネットで買って自分のアパートに飾った。男の一人暮らしの殺風景な部屋が少しだけ華やかな部屋に変わった。
 いつか猫と暮らすのが俺の夢のひとつだ。その夢を今年中には叶えようと思っている。学生時代から住んでいるこのアパートを出て、ペット可のマンションに移るのだ。
 このアパートは職場である老人ホームから近くて便利だが、ペット可でもないし、狭すぎるし汚すぎるし古すぎる。
 介護士として八年働いて貯金もでき、給料も上がったからそろそろいい頃だ。
 猫と暮らせるなんて、想像しただけで幸せな気持ちになる。猫のご飯とおもちゃと快適な住環境のためなら、盆正月の夜勤だって少しもイヤじゃないし、重い認知症の利用者さんに毎日「お前は誰だ!ドロボー!」と、枕やフォトフレームを投げつけられるのも苦にならない。
 俺はこの先、結婚はしないと思う。子供の頃から不仲の両親を見ていたせいかもしれないが結婚に夢が持てないのだ。
 母ちゃんは七年前、離婚したとたん「独身最高!あんたはもうもう就職したことだし、家族解散しようね。私はこれから自由に生きるわ」と宣言して、本当に自由に生き始めた。今はインドネシアにいるらしい。しかも彼氏までできたそうだ。
 父ちゃんは根っからの風来坊なので、今どこにいるかも知らない。もともと家族なんか持つべきじゃなかった人なのだ。
 両親は俺が子供の頃から年中ケンカばかりして罵(ののし)り合っていたが、大恋愛の末に結婚したというから、ますます俺は結婚というものに懐疑的な人間になってしまった。
 俺の人生設計はもう出来上がっている。退職するまでは快適なマンションに猫と暮らし、退職したらどこか田舎で複数の猫と一緒に暮らすのだ。しっかり貯金をして、俺が死んだ後に猫たちが路頭に迷わぬように、完璧に準備もしておく。猫にはどんな贅沢でもさせてやりたい。俺は特に欲しいものもなくて質素な暮らしが性(しょう)に合っているから、多少の金は残せるだろう。俺の遺産は猫の老後の費用と、保護猫のための活動をしている団体に使ってもらうべく、正式な遺書をしかるべき所に預けておくつもりだ。
 ここまで計画しているものの、俺は実際に猫と暮らしたことがない。親が許してくれなかったのだ。
 子供の頃から猫が好きで好きでたまらなかったから、家に猫がいるクラスメートと仲良くなって、その子の家に行って猫を可愛がるのが俺の一番の喜びだった。
 だから愛している猫は常にいた。自分の家族ではなかっただけだ。

 朝十時、勤め先の老人ホームで、利用者さんのオムツを替え終わって、ふと窓の外を見た。ホームの庭を挟んで向かいに建つマンションの二階ベランダに五十代くらいの女性が出てきて布団を干している。
 夕方になり、オムツ替えの時間がきた。するとまた向かいの部屋のベランダにさっきの女性が出てきて布団を取り込んだ。その時は何も思わなかったのだが、仕事が終わって外に出た時、何気なくマンションを見上げたら、あの部屋のベランダに猫がいるではないか!
 おそらくさっきの女性は布団を取り込んだ後、ガラス戸を閉め忘れたのだろう。頼むから早く気づいてくれ!と祈った。しかし、猫はベランダの柵の隙間から出て下に飛び降りてしまった。
「わ〜っ!大丈夫か〜!!」
 俺は叫び散らかしながら猫が飛び降りた場所に走った。髪の毛が全部逆立ちそうなくらい恐ろしかった。
 ありがたいことに猫は無事で、のんきに芝生の上で毛づくろいをしていた。俺は自分の気配を消すようにしながら徐々に距離を詰め、とうとう猫を捕まえた。その瞬間汗がどっとふき出した。
 猫は数回シャーと威嚇しただけで、暴れることもなく俺の腕の中でおとなしくなった。
「よかったなあ。怪我がなくて」
 俺はマンションの玄関に行き、片っ端からインターホンを鳴らした。しかし在宅だったのは206号室だけだった。
「すみません、お宅は猫飼ってますか? 二階のベランダから猫が飛び降りたんですけど」
 「うちには猫いないです。お隣の205号室の人が飼ってますよ」
 すぐに205号室のインターホンを鳴らしたが応答がない。仕方なく、206号室のインターホンを再び鳴らして事情を話し、205号室のドアに俺の携帯番号と猫を預かっている旨を書いたメモを貼ってくれるよう頼んだ。
 俺は猫と一緒にタクシーでアパートに帰った。途中ペットショップに寄って猫砂とカリカリとおもちゃを買った。今年中に猫と暮らし始める予定だから、無駄にはならない。
 猫は人懐こい性格のようで、部屋を一通り探索すると、ご飯も食べておしっこもして、撫でていたら俺の腕の中で眠ってしまった。
 十時近くになって、知らない番号から電話がかかってきた。205号室の人だった。
「本当にありがとうございました」
 電話の向こうからすすり泣く声が聞こえた。どんなにか驚いたことだろう。うっかりガラス戸を閉め忘れるなんて誰にでもある失敗だ。
「今から猫をお届けします」
 遠慮する彼女に言って、猫と一緒にタクシーでマンションに向かった。
 ドアを開けたのは、昼間見た中年女性ではなく、アラサーかな?というくらいの若い女性だった。
 彼女は猫を抱き取ると、涙をポロポロ流しながら何度も頭を下げた。
「なんとお礼を言ったら…どうぞ、どうぞお入りください」
 部屋の中に一歩入った俺は、腰を抜かしそうになるくらいびっくりした。
 なんとそこはYouTubeで毎日見ている「春の下僕」さんの部屋だったのだ!確かに、猫を抱いた時、春太郎君にそっくりだなあとは思った。しかし春太郎は全身真っ白で目印になるものがなく、ただ似ているだけだとしか思わなかったのだ。まさか春太郎君本人、いや本猫だとは…。
 あの絵も、あのテーブルも、この部屋の隅々まで、俺は毎日見て知っている。今までファンタジーのように思ってた部屋が、この世界に本当に存在していたのだ。衝撃と感激のあまり頭がクラクラした。
 「春の下僕」さんは、想像していた通りの優しげな人で、微笑むと目が三日月型になってとても可愛らしい。
 何百回も見たことのある花柄のティーカップに紅茶を注ぎ入れながら「春の下僕」さんは何度も何度も感謝の言葉を口にした。
「いつもはリモートワークで、長く部屋をあけることはないんですけど、今日は友人の結婚式で名古屋に行ってたんです。それで実家の母に来てもらったんですが、母が急用ができて、うっかりガラス戸を開けたまま帰ってしまって…。もしあなたがいなかったらどうなっていたことか…」
 「春の下僕」さんは、春太郎君を抱きしめてまた涙を流した。その姿を見ながら、俺も泣いてしまった。春太郎君にもしものことがあったら、俺だってどんなに悲しかったかしれない。

 あれから一年半が経った。俺はとうとうペット可のマンションで猫と一緒に暮らせるようになった。だけど、頭の中で描いていた通りの生活とはかなり違う。同居人は猫だけではなく、俺の嫁さんも一緒だ。
 利用者さんのオムツを替えながら、目の前のマンションに目をやるのが癖になった。時々「春の下僕」さんが俺に気づいて手を振ってくれる。その度に俺は幸せを噛みしめるのだ。
 半年後には新しい家族も増える。きっと春太郎君は、生まれてくる新しい家族とも仲良くしてくれるだろう。
 俺の夢は最高の形で叶ったのだ。


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