ものすご〜く恥ずかしい経験

 私がまだうんと若い頃。結婚を約束していた謙也(仮名)というボーイフレンドがいた。夏のある日、彼が母方の親戚のお寺に用事があるから一緒に来ないかと誘ってくれた。用事は何だったかは覚えていない。
その日は快晴で長時間のドライブの末、目的地のお寺に到着した時、私は「え…?」と絶句してしまった。とてつもなく広大な敷地に建つお寺は駐車場だけでも百台分くらいの広さで、建物がいくつもあって本堂がどれかもわからない。謙也は私を玄関に待たせたまま慣れた様子でスタスタと中に入って行き、着物を着た中年の男性と一緒に戻ってきた。
「叔父さん、俺の彼女」
謙也はちょっと照れた様子で私を紹介した。彼の母親の兄弟にあたる人で、そのお寺の住職だという。
「将来この叔父さんは私の親戚になるかもしれない」と思いながら、かなり緊張してぎこちない挨拶をすると、叔父さんは「よく来たね。疲れたでしょう」と優しい笑顔を向けてくれた。
「まずはお茶でも飲んでゆっくりしなさい」
叔父さんの後をついて行くと、一旦建物の外に出て、着いた先は立派な茶室だった。高校の時には茶道部に在籍していたのだが、茶菓子目当ての入部だったので、お作法なんぞほとんど覚えていない。焦る私に叔父さんは「美味しく飲んでくれたら、それでいいんですよ」と微笑みながら優雅な手つきで抹茶をたてた。
茶室はまだ出来て日が浅いらしく、生命力を感じさせるような木の香りが満ちていた。茶器は素晴らしいものだったらしいが、私なんぞにその良さがわかるはずもなく、完全に猫に小判だった。
緊張の時間が過ぎて、母屋で食事でもというありがたいお誘いをいただいた。
食事の間も、その後のコーヒータイムも、私はずっと叔父さんとしゃべっていた。文学とか宗教思想に興味があった私は、叔父さんが話してくれる親鸞や『歎異鈔』の話に夢中になった。乾いた心に純度の高い清水を注がれた感じとでも言おうか……。叔父さんの言葉を通して形而上学的な思考に触れ、なんだか違う世界に連れ出してもらったように、気持ちが高揚した。
帰ったら真っ先に『歎異鈔』を買って読もう!そう決めた。初めて会った人だけど、叔父さんに対して今まで誰にも感じたことのない深い尊敬と親しみを抱いた。叔父さんの方も未熟な小娘が熱心に話を聞いているのを喜んでいたように思う。
ずっと話していたかったが、私の横で謙也が退屈しきっていたので、二人で敷地内を散歩することにした。でも彼はそれにもすぐに飽きて「もう帰りたい」と言い出した。仕方なく叔父さんに挨拶をしようと母屋に戻った。
私は先にお手洗いをすませておこうと長い長い廊下の突き当たりにあるトイレに向かった。ちなみに母屋は幾つ部屋があるかわからないくらい広くて、とても古かった。トイレも今とは違って、木のドアを開けるとまず男性用の便器があり、その奥のドアを開けると、和式の便器があった。鍵は横にスライドさせる木の「閂(かんぬき)」。おそらく五十才以下の人は見たこともないんじゃなかろうか。
私はトイレに行き、男性用便器の前を素通りして、奥のドアに手をかけた。
次の瞬間に目に飛び込んだ光景を思い出すたびに、私は「ぎゃ〜!」と叫びたくなる。尊敬する叔父さんが和式便器で用を足していたのだ。
紺色の着物の柄と「あ!」と言う声、一瞬合ってしまった目と目。開けた方と見られた方、どっちもものすごくものすごく恥ずかしい。知らない人同士でも恥ずかしいのに、ましてやほんの少し前に仏教の思想や親鸞や歎異鈔など高尚かつ美しい話をしてくれた人なのだ。
私はものも言わずにトイレから飛び出した。客間に座って、叔父さんが来るのを待っていた時の気持ちたるや……。しばらくして叔父さんが何気なさを装ってやってきた。
「もう散歩終わったの?まあ、若い人が見て楽しいものは何もないか」
 少し引きつった笑い声に、私は顔も上げられなかった。事情を知らない謙也が何か答えて、叔父さんはまた早口で何か言った。叔父さんは会話が途切れないように頑張っていた。その時の私のいたたまれない気持ち……お察しいただきたい。
親鸞、歎異鈔と聞くと、私は今でもあの時のトイレ事件を思い出し頭を掻きむしるのだ。
ちなみに、その謙也とは、トイレ事件から一年しないうちに別れてしまった。
その「ムカつく別れ」については、また別の機会にしっかり書くつもりでいる。

もともと私は生粋のポンコツで、この年まで数限りない「恥ずかしい経験」を重ねてきた。近いところでは去年の十二月にも一つやらかしている。
それは、小学館の漫画家のための謝恩会でのことだ。漫画家の娘達(キリエ)が週刊スピリッツで『4分間のマリーゴールド』を連載していて、私もその作品をノベライズしたご縁で、娘達と一緒に出席させていただいた。会場は帝国ホテルの大広間。少し遅れて会場に入ったらちょうど萩尾望都先生が美しいお着物姿でスピーチをなさっているところだった。『ポーの一族』『11人いる!』など、先生の作品をどんなに楽しみに読んでいたことか……。
豪華な料理が並び、大きな氷のオブジェや色鮮やかな花々で飾られた大広間では、千人を超す招待客がシャンデリアの下で楽しげに笑いさざめいていた。漫画家や出版関係者、芸能人の姿もあった。

 数メートル先のテーブルで藤子不二雄A先生と黒鉄ヒロシ先生が談笑していらした。
実は私の子供の頃の夢は漫画家になることで、人生の一番の楽しみは漫画を読むことだった。まさか、憧れの先生方にこんな間近でお会いできるとは!会場には漫画界のレジェンドの先生方が綺羅星の如くいらして私は頭がクラクラした。
大興奮が少しおさまって長い息を吐いた瞬間、私は何か妙な違和感を覚えた。何か変だ……。絶対何かおかしい。なんだろう???
そして三秒後、漫画で描くなら、ここには「ガーン!」というセリフが入るに違いない。その時私は気づいたのだ。着ていた紺のワンピースの胸が真っ平らなことに……。な、な、なんと……私はブラをつけ忘れていたのだ。
大人になってから今まで、私は外出時にこんな失態を演じたことはない。自慢じゃないが、私は妊娠中と授乳中以外ずっと「Aカップ」で、貧乳を誇って(?)きた。だからブラは私にとって肉体の一部だったのだ。それなのに、それなのに、ものすごく大事な日にノーブラ!しかも不運なことに、そのワンピースは大きく胸があいているという悲劇。ブラを忘れるくらいならパン○を忘れた方が百倍マシだった。
前日、ホテルに帰ったのがとても遅かったので疲れていたし、その日は別のホテルに泊まることになっていてスーツケースの整理などに気を取られてもいた。だからと言って命綱のブラを忘れるなんて、Aカッパーズの一員としての自覚がなさ過ぎる。
若い人ならノーブラもいい。だけど、還暦過ぎのAカッパーはノーブラで人に会ったらアカン!
私は必死にワンピースの胸のあたりに空気を入れて少しでも膨らませようと虚しい努力をした。私の胸があろうがなかろうが、そんなこと誰も気にしないことくらい重々わかっている。だけど……だけど、大尊敬する方達が近くにいるのに、少しは綺麗にしていたいじゃないか。華やかなロングドレスの女性が目の前を横切った時、私は深呼吸して自分に言い聞かせた。
「大丈夫!だ〜れも気づかない。胸がガバッとあいてるけど、中身が見えるわけじゃない。みんな会話に夢中で私の胸なんか見ない」
謝恩会が終わり、二次会の会場に向かう時に、娘達に訊いた。
「お母さん、どっか変じゃない?」
「……う〜ん、変じゃないけど……」
 上の娘が首を傾げた。
「胸が……」
私はこの先、パン○を履き忘れることがあっても、ブラを忘れることは絶対にしないと硬く心に誓ったのである。

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