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武蔵のひとりごと 嫁姑問題

 春たんの母親を「お姑様(おかあさま)」と呼んで、嫁として精一杯尽くすという夢はとうとう叶わなかった。だけどこの前、俺の料理を食べてもらえて嬉しかったなあ。牧はさぞかし悔しかったに違いない。
もう二度と「味が濃い」なんて言わせないぞ。塩を控えめにしても、旨味成分を大事にして出汁の味を効かせれば、薄味でも物足りなくはないのだ。
 お母様、嫁になりそこねたわたくしめの手料理、いかがだったでしょうか? 
 記憶をたぐり寄せれば、結婚式場に俺を残して春たんが去ってしまった後の数年間、それはそれは辛い日々だった。正直、しばらくの間は牧を呪ったりもしていた。誓いのキス寸前で春たんは牧のところに行ってしまったのだから、それは当然だろう。
心優しいシンデレラだって、王子様と婚約後に「格差婚ってめっちゃ憧れたけど、やっぱ結婚となると、似たような環境で育った人との方がいいと思うんだよね。政治的な利害もあるし、俺の両親も反対してるしさ。でね、悪いんだけど隣国の姫と結婚することになったんだ。ごめんね。うち金持ちなんで慰謝料はずむから新しい人生を楽しんでね」などと王子様に言われて婚約破棄されたら、あの魔法使いに泣きついて呪いをかけてもらっただろう。
王子様の両足の裏に魚の目が五つできますようにとか、歯周病になってリンゴをかじると血が出ますようにとか、三十代でハゲ散らかしますようにとか、結婚した隣国の姫が家来と不倫しますようにとか…。
天使のようなシンデレラでさえそうなのだから、天使じゃない俺が牧を呪うのは当然である。
 牧のあの大きな瞳が、どうか早く老眼になりますように、アレルギー性結膜炎で春になると真っ赤っかになって、春たんにギョッとされますようにと日々願ったものである。街でチワワを見かけるたびにふつふつと怒りがこみ上げ、飼い主に聞こえるような大声で、「チワワって可愛いなあ。だけど犬の賢さ選手権で67位らしいなあ。ワッハッハ」
 などと言って飼い主を激怒させたりしたものだ。
しかし月日が経つにつれて、そんな気持ちは薄らいでいった。最近では牧のあのうるうるした瞳を思い出しても、せいぜいドライアイになりますようにと願うくらいの寛大な気持ちになっている。
 もしあのまま天空不動産にいたら、きっと春たんのことを忘れられずにいただろう。早期退職して正解だった。世界中を放浪していろんな職についたのも、いい想い出だ。
 水族館にいたペン太、元気かな。ペンギンといえばタキシード。春たんの白いタキシード姿を思い出してはギリギリとハンカチを噛んだものだ。プラネタリウムで解説の仕事をしていた頃は、オリオンに会いたくてオリオン星座を通るアルテミスのような乙女心を抱いたまま、夜空を見上げては泣き濡れたものだった。
 だけど、もう大丈夫!……だったはずなのに、なぜ俺は牧を見ると心がざわつくのだろう。牧を思い出すだけで、どうして美しい青空の下を歩いていてもモヤモヤするのだろう。
 今日、そのモヤモヤに心をからめとられながら川沿いの道を歩いていると、蝶子にばったり会った。
「どうしたの?」と訊かれて正直に胸の内を話すと、彼女はきっぱり言い放った。
「それ、姑! 息子を愛しすぎて、そのパートナーにいじわるしたくなるの」
 しゅ、姑〜!? 俺は姑になったのか!?
 母親が息子を愛する気持ちは恋にとてもよく似ていると聞いたことがある。俺の恋心は、いつの間にか息子を想う母の愛に昇華したというのか。息子にとって生涯ナンバーワンの存在でありたいという俺の無意識の願望が、嫁姑問題を引き起こしているのだろうか。
春たんに恋をしていた頃を思い起こすと、確かにあの頃とは何かが違っている。
そもそもあの頃は、春たんと牧に幸せになって欲しいという気持ちなんかなかった。俺が春たんと幸せになりたかったし、春たんを幸せにできるのは俺だと思っていた。
 あの頃も今も牧に嫉妬したり張り合ったりしているが、あの頃とは違って別れさせたいなんて針の先ほども思ってはいない。嘘偽りなく、二人の幸せを心から願っているのだ。
 うむ……。蝶子が言った言葉は、八割五分くらい納得なり。
春た〜ん!!!辛いことがあったら、俺の胸に飛び込んで来なさ〜い!!!
俺はお前のママだからな〜!!!


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