ただいま

キッチンから跳ねるような水音が聞こえてくる。まだ覚醒しきっていない頭では、今が朝なのか夕方なのかわからない。壁時計を見上げると四時半を指していた。そろそろ華子の好きな薄暮の時間だ。冬の夕方、薄明の西の空が青から黄金色へ、そして赤へと刻々と変わっていくのを眺めながら九十年の人生をなぞるのが、この頃の習慣になっている。
 華子は介護ベッドの脇にある小さなテーブルの上のフォトフレームを見やった。ウエディングドレスに身を包んだ曽孫(ひまご)とともに写真を撮ったのはちょうど一年前だ。
「もう何一つ思い残すことはないわ」
 幸せなため息を漏らした時、フェルトのスリッパの優しい足音が近づいてきて、ほうじ茶の香りとともに息子の雅春(まさはる)が入ってきた。
「いい匂い」
 雅春がベッドの背を上げてくれ、華子は手櫛で髪を整えた。
 息子一家と、二世帯住宅の一階と二階に別れて暮らし初めてから二十七年。互いの生活に干渉しないという暗黙の了解は守られてきた。孫を預かったり、料理のおすそ分けくらいはするが、余計な口出しや手だしをしないのが嫁姑がうまくいく条件だと、華子は思っていたのだ。しかし二年前に夫が鬼籍に入り、九十歳を目前にした頃から朽ちた老木のように介護ベッドに寝たきりになってから、雅春は一階にいる時間が格段に増えた。
 「母さん、九十歳くらいの作家さんが猫を飼い始めたってテレビで言ってたよ。母さんもまた猫飼ってみない?」
 雅春がサイドボードに飾られた古い白黒写真に目をやりながら言った。白無垢を着た華子が白っぽい猫を抱いている写真で、セピア色に変色している。
「今さら? 無理よ。お世話できないもの」
「僕がするよ」
「やめておくわ。他の猫を飼ったらあの子がヤキモチ焼くかもしれない」
 華子がフォトフレームの中の猫を見やると、雅春は笑って「う〜ん、そうかも。じゃあ、やめとこう」とあっさり提案を引っ込めた。
華子が若い頃に飼っていた猫は、雅春が生まれる前に死んでしまったので雅春は会ったことはない。それでも写真を毎日観ていたせいか、子供の頃から親しみを感じているようだ。
灯台が見える桟橋で仔猫を拾った時、華子は十一歳だった。父にも父の後妻さんにも甘えたことのない華子が、後にも先にも一度だけ「欲しい」とねだったのがこの猫だった。
「お母さん、猫を飼ってもいいですか?」
義母を「お母さん」と呼んだのはその時が初めてだった。義母もその場にいた父も上機嫌で、飼うことを許してくれた。
それは桜の枝に樹冠を開いた五、六一輪の花を見つけた早春の日だったので「ハル」と名付けた。父と義母と赤ん坊の三人家族からいつもはじき飛ばされていた華子に家族ができたのだ。
ハルは華子にしか懐かなかった。華子のいるところにはハルが必ずいて、夜も同じ布団で寝た。ハルと暮らすようになってから、華子を取り囲んでいる暗くて冷たい雲のようなものが消えた。
優しかった祖母が亡くなった時も、空襲警報が鳴り響く中、防空壕で身を固くしていた時も、食べてもいない饅頭を「あんたが食べたんやろう。意地汚い」と、義母に物差しで手や足を散々叩かれた時も、ハルはそばにいてくれた。一人でこそこそと泣いていると、ハルはそっと華子に近づいて膝や腕を揉みしだき、檜(ひのき)の樹皮のような茶褐色の瞳で、華子の目の奥をもの言いたげに覗き込むのが常だった。すると、どんなに心がささくれ立っていても、悲しみに胸がふさがれていても、いつも癒され立ち上がる勇気が湧いてくるのだった。
高校卒業と同時に家を出て東京の小さな会社に就職した時、やっとハルと「親子水入らず」で暮らせると心底嬉しかった。
親子水入らずの生活が終わったのは、それから八年後。華子は二十七歳の時に会社の取引先の青年と結婚した。それまで何人かの人に告白されたり、ほんの短い間付き合ったりしたが結婚に踏み切れなかったのはハルの「お許し」が出なかったからだ。ハルが懐かない人とは恋愛も結婚もしないと心に決めていた。不思議なことに、後に夫となる人にだけ、ハルは最初からゴロゴロと喉を鳴らして近づき、二時間後には膝の上で寝てしまった。
結婚式から一年。ハルは華子の幸せな結婚生活を見届けて安心したかのように死んでしまった。華子は泣いて泣いて泣いて、幸せや希望というようなものを何も感じなくなった。もう二度と心から笑うことはないだろうと絶望した。新婚の夫でさえ悲しみを癒すことができずにただ途方にくれていた。
 それから数ヶ月が経ったある日、泣き寝入りした夜明けに夢を見た。
「ただいま」
 人間の言葉を話すはずがないのに、華子にはそれがハルの声だとわかった。声なき声とでも言ったらいいのか、確かに声の主はハルだった。
「ハル!」
 どこからともなく現れたハルが嬉しそうに華子の足に体をすり付けた。
「ただいま」
 ハルがささやいた。
 華子はその場に座り込んで両手でハルの頬を挟んだ。
「おかえり!」
「お母ちゃん、もう泣いちゃダメだよ。これからずっとそばにいるから」
「本当に?」
「本当だよ。す〜っとそばにいる。今までたくさん可愛がってくれてありがとう。すごく幸せだった。僕を看取ってくれたから、これからはずっとそばにいてお母ちゃんの最期は僕が看取るよ」
「約束する?」
「うん、約束する」
樹皮で染めたような茶褐色の瞳が華子の目の底を覗き込んだ。
ああ、あの瞳だ……。
華子はハルを抱きしめた。嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。
「おかえり、ハル」
自分の声で目が覚めた。しかし腕にはうっすらとハルの温もりが感じられ、ハルの匂いもあたりに残っていた。
ハルは帰ってきたのだ。私のそばにいてずっとずっと見守ってくれる。私が死ぬまで一緒にいてくれるのだ。
それは春の嵐が吹き荒れる日だった。

悲しみは消えなかったが、翌年生まれた息子の育児に追われて、生々しい痛みは少しずつ癒されていった。あれからもう六十年。幸せな人生だったと華子はしみじみ思う。
 いつの間にか太陽が沈んだ方向にかかった雲が、ピンクや紫色の焼け色に染まっている。
「灯りをつける?」
 雅春がベッド脇の椅子に座って優しく訊いた。
「ううん、このままでいい。綺麗な空を見ていたい」
 ベランダから黄金色の光線が流れ込んできた。
 雅春が静かに微笑んで華子の手を取り、そっと撫でるように揉み始めた。
「ああ、いい気持ち、眠たくなってきたわ」
「眠っていいよ。母さんが眠るまでここにいるから」
 まぶたが重くなってきて、もう開けていることが難しくなってきた。
 雅春は樹皮で染めたような茶褐色の瞳を潤ませて、華子の目の奥を覗き込んだ。
「おやすみ、母さん」
 華子は閉じかけた瞳にありったけの愛を込めて雅春を見つめ返した。
「ハル……約束を守ってくれてありがとう」


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