犯罪者と猫

「これから私は、生まれて初めて本物の犯罪を犯す」
  車を降りた涼子は麻のワンピースのシワを伸ばしながらゆっくりと息を吸った。
そして、バール、金槌、ガラス切り、ガムテープ、ゴム手袋を入れたリュックサックを背負った。
家宅侵入罪、器物損壊罪、窃盗罪……。頭の中で罪名が鳴り響く。
都心を離れた田舎道は、ここしばらく雨が降っていないせいか埃っぽく、丈高い欅(けやき)の葉がひどくくすんでいた。
早春には緑が滴(したた)って、冬の終わりを寿(ことほ)いでいたのにと、涼子は自分と啓介との関係を重ね合わせて、心がトゲトゲとささくれ立つような気がした。
コンクリートの地面を日がな一日炙(あぶ)っていた夏の太陽が、ようやく西に傾き始めた。それでも未練たらしく山の稜線に半分隠れて、黄金色の鋭い光を投げかけている。その眩しさに、涼子は思わず目を細めた。
時間はわずかしかない。今頃啓介は待ち合わせ場所のカフェでイライラと貧乏ゆすりをしているだろう。
 「今、どこ?」
 啓介からLINEが入った。
 「タクシー。道が混んでる。ラッシュに引っかかった。待ってて。夕食叙々苑で焼肉おごるから」
 震える手で返信したら、すぐに笑顔のLINEスタンプが送られて来た。思い起こせば、出逢ったその日にコーヒーをおごってもらったのが最初で最後で、その後はいつも食事代も飲み代も、遊園地の入園料なども、全て涼子が支払ってきた。
 どうしてあんな男を、少女漫画に出てくるような「ピュアな人」だと錯覚してしまったのか、どうしてあんな口だけのチャラ男を「初恋」の相手に選んでしまったのか。後悔が波のように押し寄せて、内臓をキチキチと噛む。彼に対する恋心などとっくに消えているのに、まだこうやって悪縁を断ち切れずにいることが忌々しくてならなかった。
小学校から大学まで女子校で、男女のことに関して厳しい両親の監視の元では、恋愛など不可能だった。恋への憧憬はどんどん膨らんでいって、少女漫画に出てくるような男がいつか現れると夢見ていた。
涼子が思い描いていたのは「雨の中で震えている仔犬を拾って家に連れて帰る不良少年」とか「才能があるのに、まだ世の中に出ていない無名の芸術家」だった。
 恋に恋していた涼子は、大学生の時に友人に連れて行かれた小さなライブハウスでギターを弾いていた啓介に出逢った時、「この人こそ私が待っていた人だ」と思い込んでしまった。
「いつかきっとメジャーデビューして東京ドームでコンサートする。お前は一番前で観るんだ」
涼子は彼の言葉を百パーセント信じた。物語のヒロインになったのだ。私は彼のサクセスストーリーのヒロインを生きている。そう信じて疑わなかった。
その確信が揺らぎ始めたのは、出逢って二年目、大企業に就職して半年ほど過ぎた頃だった。たくさんの男性をそばで見て、仕事や飲み会で話すようになって初めて、いろんなことが見えてきたのだ。普通は知り合ってすぐに「お前」なんて呼ばないし、午前中から酒の匂いをさせたりしないし、一日中ひっきりなしにLINEを送る暇などない。夢ばかり語って働こうとせず、「俺が有名になれないのは音楽関係者が馬鹿ばかりだからだ」と口癖のように言う啓介の言葉を「それは本当なのだろうか」と疑うようになったのだ。
決定的な別れの理由は啓介の浮気だった。仕事帰りにちょっとだけ顔をみようと思い立ち、テイクアウトした中華料理を抱えてこの坂を登ったのはついひと月前だ。
玄関の引き戸を開けたらハイヒールが脱ぎ捨ててあり、そっと部屋を除くと、啓介が金髪の女と畳の上で寝ていた。二人とも全裸だった。
家に向かうタクシーの中でLINEを使って別れを告げた。
「遊びの女とお前は違う」
「肉体関係だけでハートはお前のものだ」
 啓介が言葉を重ねれば重ねるほど心は冷えて、かすかな残り火さえ完全に消えてしまった。

 涼子は、狭くて急な坂道を上がったところに建つ古家の前で、荒い息を整えた。今にも崩れそうな家は、元々啓介の祖父母の持ち家だったそうだ。空き家になって長い年月が経ち、アパート代も払えなくなった啓介が、そこに住みついたのだという。あたりに家はなく、似たような廃屋が坂の途中に一軒あるだけで、狐狸の里のような場所だ。
「私は今から犯罪を犯す」
 涼子は激しい動悸のためにめまいを起こしながら家の前に立った。
窓から中を覗いて窓ガラスを叩くと、丸くなって寝ていた茶トラの猫がムクッと起きて、ピューマさながらの勢いで走ってきた。ガラスを通して鳴き声が聞こえてくる。
 今、啓介と涼子をつないでいる鎹(かすがい)はこの猫だけなのだ。迷い込んで来た猫が居ついてしまったと啓介はぼやいていた。彼には「飼っている」と言う意識はなく、窓やドアを開けっ放しにしていることが多いので、勝手に入ってきて勝手にそこでくつろいでいるらしい。啓介はかわいがりもせず、ご飯は食べ残したものを気が向いた時にやるといういい加減さで、名前すらつけなかった。
不思議なことに、猫は涼子に初めて会った時から懐いた。膝に乗り、前脚で太ももや胸を揉みしだき、ゴロゴロと喉を鳴らした。啓介がどんなにじゃけんに猫をどかしても、涼子のそばから離れずに付いて回った。こんなにも人懐こく、人間が大好きなのに、啓介が少しも可愛がらないから愛に飢えているのだろうと哀れでならなかった。
 涼子はこの猫のことだけが気がかりで、譲って欲しいと何度も頼んだのだが、いつもけんもほろろに断られた。まるで人質のように猫はこの家につながれてしまったのだ。
「他に男作ったら、猫殺すぞ」
「俺の電話にはちゃんと出ろ。出なかったら猫、川に流すぞ」
 啓介の脅しは、言葉だけだと思えなかった。彼ならやりかねない。
啓介は何よりも自分が一番可愛い人間で、自分の思う通りにならないことがあると駄々をこねて暴れる三歳児と同じなのだ。
 窓ガラスの向こうにいる猫は最後に見た時と比べて明らかに痩せていた。「猫ちゃん、大丈夫?」と声をかけると、猫はガラスに顔を押し付けてかすれた声で精一杯鳴いた。
「会いたかった〜! やっと来てくれたんだね。早く抱っこして」
涼子にはそう聞こえた。
 リュックサックからガラス切りを取り出したその時、近くで人声がした。二人連れだ。手袋の中がじっとりと汗ばんできた。
息を止めて身を屈めていると、声はだんだん遠くなり、やがて聞こえなくなった。
 再び窓ガラスに近づいたが、もしまた誰かが通りかかったらどうしようと、急に怖くなった。ガラスを切らずに中に入る方法はないだろうか。
面倒くさがりの啓介なら鍵を閉めていないところがあるかもしれないと、窓や戸口を確かめて回った。すると、建て付けの悪い裏口のドアがギシギシと耳障りの悪い音を立てて少しだけ開いた。
 靴を脱ぐのももどかしく涼子は中に入って「猫ちゃん」と小さな声で呼んだ。猫はすぐそこまで来ていて涼子の足にすり寄って喉を鳴らし始めた。
涼子は猫を抱きかかえ、一目散に車に向かった。エンジンをかける手は震え、心臓のバクバクが止まらない。
家宅侵入罪、窃盗罪……。頭の中で繰り返しその言葉が聞こえ、パトカーとすれ違うたびに、心臓がキュッと縮み上がった。
「あと二十分で家に着くから、タクシー呼んでおいて」
母親に電話を入れた。
 家に着き、涼子は玄関で待っていた母親に猫を預けて、タクシーに乗り込んだ。啓介が待つカフェまではまだ三十分以上かかる。しかし「叙々苑」が効いて、啓介は「待ってるよ〜」「まだかな?」などとご機嫌なLINEを送ってくるだけで、少しもイラついていないようだ。
「先に叙々苑に行って飲み始めてて」
 送ったLINEに啓介は「了解」と、可愛いスタンプつきで返して来た。頭の中はもう焼肉でいっぱいなのだろう。
涼子が叙々苑に着いた時には、啓介はエビやホタテの塩焼きをつまみにしてビール二本をあけ、ほろ酔い状態だった。
猫を盗んだ興奮と満足感で、いつになく涼子は饒舌になり、笑顔も惜しみなく見せた。啓介は焼肉に舌鼓を打ちながら終始上機嫌で、涼子がまた自分の元に戻ってきたと勘違いしているのが手に取るようにわかった。
食事を終えて外に出るなり、啓介は自信満々といった様子で「うち、寄ってくだろ?」と、涼子の肩を抱き寄せた。
その腕を振りほどいた涼子は、大きく息を吸い込んで笑顔を見せた。
「あなたと会うのはこれが最後。今日はあなたにサヨナラを言うために会いにきたの。元気でね」
啓介は酒で充血した目を見開いた。
「は? なにそれ」
「もう二度と会うことはないから」
「あの女とはきっぱり別れたってば」
「彼女のことなんかどうでもいいの。はっきり言うけど、もう好きでもなんでもない。だからもう連絡してこないでね。絶対に会わないから」
 ぽかんと立ち尽くす啓介にくるりと背を向け、涼子は道路に身を乗り出してタクシーを止めた。

家に帰って、シャワーを済ませたところに啓介からLINEが届いた。
「猫がお前に会いたがってると思うから、最後に猫の顔くらい見に来いよ。明日の夜待ってる。それを最後にしよう」
 涼子はニヤッと笑ってベッドに座った。間髪を入れずに猫がポンと膝の上に飛び乗ってせっせと太ももを揉み始めた。
「明日健康診断受けにペット病院に行こうね。帰りにおやつやおもちゃもいっぱい買おうね。これからは体にいいご飯や美味しいチュールをあげるからうんと長生きするのよ。トラちゃん」
 トラは「ニャア」と可愛く返事をしてゴロゴロと盛大に喉を鳴らした。

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